2017/08/22

第91冊 宇宙開発は人道的か? SFよりもSF的な奇書、稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』

宇宙倫理学入門 宇宙倫理学入門

 リベラリズムの観点から、宇宙開発のありようとその未来を問うてみる、という「いやその切り口は予想してなかったわ!!」という奇書であります。


 例えば、「技術的には無人で済むはずの宇宙航行を、あえて人命を危険に晒す有人で行う必要があるのか?」という問いが立てられます。リベラリズムはものすごくざっくり言えば「公のために死ぬとか犠牲になるとかナシ。個々人の幸せの最大化が大事」という路線の考え方ですので、「人類のための尊い犠牲」みたいな物語じゃやっつけられません。そんな感じで論を立てて考えていくと、次から次へと問題が浸み出してきます。


 「いや有人じゃないと、仮に他所の知的生命体と遭遇したりしたらまずいのでは?」ときたら、「改造人間、ポストヒューマン……いや、自律的判断ができるのなら、人命優先、ロボットに高度な知性を与えて自律的判断が可能にすればいいんじゃないか」ときて、「いやいや、高度な知性で自律的判断が可能なもの、というのが誕生したら、多かれ少なかれそれは、社会的には人間に準ずる扱いが必要になるのではないか。だとしたら、宇宙船に乗せて飛ばすにしても本人の意思が大事に」……といった具合に、むこう数百年がかりでようやく現実化するかもしれない技術をも視野に入れた、著者曰く「ミドルレンジ」の議論が展開されていきます。

 
 個別の議論の面白さもさることながら、過酷な宇宙進出という「極限状態」を想定することにより、古代の徳に基づく倫理学(徳倫理学)とリベラリズムの対立軸が明確になり、倫理ってのがそもそも何を問うものなのか、ということを見せてくれること。個人の徳を説く徳倫理学は、不可避的に個人をより徳に優れた人とそうでない人、という「差別」を含んでしまう、というのは言われてみれば確かにその通り、目からウロコでした。

 
 「死と危険にずっと近い側」に人間(ないしは、人間に近い知性を持つ何か)を追い込みうる有人宇宙進出は、リベラリズムよりむしろ徳倫理学のもとで行われたほうが、倫理的な困難が少ないように思えます。とすると、古今東西のスペースオペラにしばしば帝国を名乗ったり専制的な支配体制を持っていたりする国家が登場するのは、これまた古今東西の作家たちの、宇宙開発と倫理の関係に対する直感が素晴らしいと言えるかもしれません(宇宙への播種・植民と似たものを、過去の歴史上にヒントを求めるとどうしてもそうなる、という面もあるかもですが)。各種「銀河帝国」をそんな目線で捉え直すと、実に味わい深いものです。ゴールデンバウム王朝も神聖ラアルゴン帝国も、あるべくしてあったのだ、と。

 
 もう一つ面白いのは、SFに昔より異星人が出てこなくなった、それは何故か、なんていうような、SFに対するある種の文学批評的な切り口。それに対する著者の見解は、個人的には実に唸らされるものでした。読んでいるうちにいつしか相当遠くに連れて行ってもらったような気分になる、幸福で遠大な読書体験を得られる、そんな奇書であります。