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2015/10/08

第84冊&85冊 身体の中で何が起こっているか、トコトン見よう『関節内運動学―4D‐CTで解き明かす』『運動療法の「なぜ?」がわかる超音波解剖』

解剖学という学問は、人体に関する限り、
基本的には「死体解剖学(by 野口三千三)」であります。


人間の生体解剖は倫理的に問題がありますし、
解剖している時点で、人体は通常とはだいぶ異なる
挙動をしているかもしれないわけです。


人体を小宇宙(コスモとは読みませんよ)と見なす、
東洋医学的身体観が生まれたりするのも、
むべなるかな。


余談ながら、人間の身体の働きを、昔の中国では
「内景図」なる図で示していますが、ググってみると
面白いですよ。人の身体をこんな風に解釈してたのか……!
と。


さて、もとへ。


で、人類の技術の進歩が可能にしたのは、体の奥の、
関節や筋肉の運動を外から観る、という離れ技。


関節内運動学―4D‐CTで解き明かす
関節内運動学―4D‐CTで解き明かす


4D-CTは、今ではよく胎児の顔を見るのに
使われたりもする技術ですが、いやはや。

これは、関節の細かい動き(上腕骨は確かに
滑りながら転がってるなー、とか)がよくわかります。

AKAなんかで狙っているような「関節内運動(関節包内運動)」を
体の外から生み出すにはどうしたらいいか、というヒントになると
思います。


運動療法の「なぜ?」がわかる超音波解剖 [Web動画付]
運動療法の「なぜ?」がわかる超音波解剖


こちらも、超音波エコーの画像で、ストレッチや特定の運動によって
起きる、ナマでは見られない、筋肉のうごめく姿を見てやろう……
というコンセプトの本です。


4Dスキャンに比べると、モノクロな上に平面的なので、
本の解説なしだと解剖学を学んでいてもなかなかイメージ
しづらいですが、筋肉が、ウネウネビクビクユラユラと動くさまが
見えるのは、超音波エコーならではだと思います。


マッサージなどの手技療法はただ揉むのではなく、
筋肉そのものの動きを引き出し、邪魔しないことで、
まったく別次元のように効き方が変わりますが、
皮膚の下で動く筋肉のイメージを、この本で脳内に
焼きつけるのは、それなりに意味があるように思えます。





まあ、たまには治療屋らしい本を読んでますよ、ということで。

2015/04/09

第67~71冊 脊椎動物五億年スケールの夢から育児論へ 『胎児の世界』~『赤ちゃんはいつ人間になるのか』


Amazon.co.jp: 胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691)): 三木 成夫: 本

二つの「ショック」、と『胎児の世界』


私が子供のころ。
母が流産をしたことがありました。


弟になるはずだった胎児の姿を、
私は直接見ることはありませんでしたが、
実際に見た父から、まだ人のカタチに
なっていなかった、という意味合いのことを
聞いた時には、何を言っているのかはいまひとつ
分からなかったですが、たいそうなショックを受けた
記憶があります。


当時の私は、赤ちゃんというのは、
人間の小さいのがどの時点からかよく
わからないけれどお腹の中に宿り、
そのままある程度大きくなったら出てくる、
というイメージだったからです。


その後、何かの本で、カンガルーの
赤ん坊の姿と、人間の胎児のある時点の
姿がよく似ていることを知り、さらにショックを
受けました。


「全然人間っぽくないぞ?」


と。

それからだいぶ後、タイトルに惹かれて
購入したのが『胎児の世界』。

私の二つのショックを掘り起こし、
生命現象そのものへの深い興味を
かき立ててくれた本です。

生物学? 哲学? 全部だ!


『胎児の世界』は、胎児が発達していく
過程で脊椎動物の進化の歴史を
繰り返していく、という話を軸に、
生命そのものに深く刻まれた進化の
記憶、というものの姿を語って見せます。


本書は、部分部分にご自身の緻密な
研究観察の成果がちりばめられつつも、
科学的に実証不可能なレベルの壮大な
思索を展開してみせている点で、
科学入門書というよりは哲学書や詩集、
エッセイ集に見えます。


著者の三木成夫さんという方は、
解剖学・発生学の研究者でありますが、
それらを貫いて響く「三木生命哲学」とでも
言うべきもののおかげで、とかく無味乾燥に
なりがちな解剖学・発生学がつながって、
輝いて見えてきます。


かの吉本隆明さんもこの著者のことを知って
たいそうショックを受けた、と『心とは何か』で
書いていました。

Amazon.co.jp: 心とは何か―心的現象論入門: 吉本 隆明: 本



でも、私がこの本を推すのは、そうした
筆致に垣間見える、三木成夫さんの、
知の探究者としての狂おしいほどの情熱……
手早く言ってしまえば「マッドサイエンティスト」の
発する「空気」ゆえです。

 いったい、生物はどうしてリズムを知るのか。たとえば、女性の排卵は月の公転と一致して、左右の卵巣から交互に一個ずつ体腔内に排卵されるが、 この暗黒の体腔のなかで、かれらはいかにして月齢を知るのか。その観測はいかにしてなされるのか。かれらは、たとえば、感覚器官の潜望鏡を体腔から外に突きだして、しげしげと月を眺めているのか。   
 この問題は、魚鳥が移動するとき、その時刻と方角をいかにしてキャッチするかという問いに集約される。羅針盤も 天体儀ももたないかれらが、時節到来とともに故郷と餌場の方向に正確に頭を向けて出発する。どのようなからくりがそこに隠されているのだろう? 
 とくに戦後の生物学はこの問題に真剣に取り組み、数多くのメカニズムを神経生理学的に解明してきた。しかし、その絶妙のメカニズムがわかれば わかるほど、ますます謎が深まっていくというのは、どういうことなのであろう?この問題の指針はただ一つ、それは、卵巣とは全体が一個の「生きた惑星」で はないか、ということだ。いや、この地球に生きるすべての細胞はみな天体ではないのか……(改行引用者)

何となく、言いたいことは伝わりますでしょうか。

科学と哲学が今よりずっと未分化であった19世紀の
趣があります。いや、バカにしているわけではなく。

科学が事象を細かく分けて分析していく緻密さ・精確さ
を増していくにつれて、なかなかこういう文学めいた
切り口で書かれた本にはお目にかかれません。



内臓とこころ (河出文庫): 三木 成夫


こちらは更に一歩。

人間のこころの発達に、内臓の状態がどう
関わっているか、ということを語った一冊。

排泄や空腹といったものを通じた
快不快というものがこころを育んでいくのだ、
という、生理学と心理学を結び付けようという試みで、
これがまた面白い。

講演記録をもとにしたものなので、『胎児の世界』とは
また違う三木節の面白さが際立ちます。


そして、マッドな弟子へ。


そして三木成夫さんの謦咳に接したひとりで
歯科医師の西原克成さんは、この三木さんの
「マッド」っぷりの継承者、かもしれません。


その西原克成さんが育児に関わる本を
書いています。

赤ちゃんはいつ「人間」になるのか―「育児常識」は危険だらけ: 西原 克成: 本


赤ちゃんを、

 「人類に至る進化の歴史のまだ途上に
 ある生物として見る」

という視点にはちょっと驚かされますが、
例えば、赤ちゃんは、口で乳を飲みながら呼吸をできるが、
大人はこのようなことはできない、という話が出てきます。

実はあらゆる哺乳動物の中で、ミルクにむせかえったり、
あるいは食物が喉に詰まって窒息するというのは人間、
それも成長した人間だけに特有のことなのです。実際、
イヌやネコは赤ちゃん同様に息継ぎせずに餌を食べ続ける
ことができます。赤ちゃんの喉の仕組みは、実は、このイヌや
ネコ、サルなどという動物の喉と、あまり変わることがありません。
つまり、赤ちゃんの喉は、まさに「人間以前」であるわけです。(p22)

といった話を皮切りに、子どもの鼻呼吸をシッカリ体得させる
ことが、子どものその後の人生での健康を維持増進するために
いかに重要か、そのためにはどうすべきか、という論展開に
つながっていきます。

この話のスケールの広がり、さすがと言うべきでしょうが、
この本は西原本の中ではかなりおとなしい部類に属するもので、
例えば、

「心肺同時移植を受けた患者は、すっかりドナーの
性格に入れ替わってしまう」

……という事例を引き、内臓こそが心の本体(?)で
あるとした本がこちらです。



内臓が生みだす心 (NHKブックス): 西原 克成: 本


……で、内臓とこころの相関関係という、師匠から
受け継いだテーマそのものもなかなか面白いのですが、
この本の中に、重力対応進化論という、重力との相関関係によって
生物が進化してきたのだ、というかなり面白い説が出て来ます。


 生物は重力が進化させた―実験で検証された新しい進化の法則 (ブルーバックス): 西原 克成: 本
 
こちらの本では、その重力進化論を実証するためにサメを地上に
引き揚げてむりやり肺呼吸に切り替えさせる
ような実験をしたり……みたいな話もあり、その筆の
オーバーヒート気味な感じがまた、科学書としての価値を
危うくしながらも(笑)、未知の世界へ独自理論で切り込んでいく
気持ちよさのようなものを感じさせ、何とも言えぬ魅力を
醸し出すのです。


師弟ともに、その論じるところは、現在の厳密な科学的検証に
耐える理論か……という点に関しては、ちょっと留保の必要ありかとは
思いますが、その危ういラインというのは、ある意味でまだ珍説奇説が
舞い踊ることのできるフロンティアでもあるわけで、そういうのが
好きな方には、ぜひご一読をお勧めいたします。

2015/03/27

第64~66冊 自分の「からだ」と出会う、「よくわからない」方法 『「からだ」と「ことば」のレッスン』『ことばが劈(ひら)かれるとき』『竹内レッスン』

今日ご紹介する三冊の著者である竹内敏晴さんという方は、
職業で言えば「演出家」、ということになるのでしょうが、
本を読んで感じるのは、そんな枠組みにおさまらない、
「からだ」と「ことば」の探究者であるということです。

これほど「からだ」とか「ことば」といったものについて
深く考えている人は、マッサージ師などの手技療法家にも
なかなかいないのではないか、と(自戒をこめつつ)感じます。

人と人とが分かりあうとは、どういうことか。
ことばとからだの関わりとは、どういうものだろうか。

……という、ものすごく根源的な問いに対して
向き合って書かれた本たちでは、ことばやからだという
ものが意識されていくことで、人がどう変わっていくか、
ということまで踏み込んで描かれています。

「話しかけ」のレッスン


「からだ」と「ことば」のレッスン (講談社現代新書): 竹内 敏晴


自分のことばが、相手にちゃんと届いているか、
なんてことを意識したこと、ありますか?


単純に声が大きい小さいとは関係なく、ある時は
ことばは相手に届かず、落ちる。またある時は、
相手を通り過ぎる。その人、ではなくて、そのあたりの
人々、に届いてしまうこともある。


そんなことを体験してみる「話しかけ」のレッスンの
ことを知ったのは、10年近く前、『「からだ」と「ことば」のレッスン』
を読んで、でした。


人間対人間のやりとりとしての「ことば」や、それを発する
「からだ」を掘り下げていく「レッスン」の数々は、あまりにも
抽象的で、演劇のレッスン、というもののイメージを覆すものでした。

聞きわけているうちに、声とは、単に空気の疎密波という観念によって表象されるような、抵抗感のないものではないことが実感されてくる。肩にさわった、とか、バシっとぶつかった、とか、近づいてきたけどカーブして逸れていった、というような言い方で表現するほか仕方のないような感じ――即ち、からだへの触れ方を、声はするのである。(『「からだ」と「ことば」のレッスン』p27)

何のこっちゃい、と思われる方も多いかと思いますが、
同じレッスンをしなくとも、例えば、目の前にいる人の話し方を
苦痛に感じるか、心地よく感じるか、それはどこに感じるか、
といったことを注意するだけでも、だんだんと面白さと奥深さが
わかってきます。

苦闘の歴史


ことばが劈(ひら)かれるとき 竹内 敏晴


 普通に暮らしていたら気にならなそうなそんなテーマに
なぜ著者はそこまでこだわるのか。そこには、慢性中耳炎
急性発作症なる病のために言葉が聞こえなかった著者が、
徐々に聴力を回復するとともに「ことば」を取り戻していった、
という経緯が絡んでいるようです。

そうした経緯や竹内レッスンと呼ばれることになる
不思議なレッスンの誕生や展開を自伝風にまとめた
『ことばが劈(ひら)かれるとき』には、自らのレッスンについて
こう記しています。

演技とは、芝居をうまくやるための技術、ととるのが
通常の理解だろうが、そのような配慮はまったく
私の頭から消えていた。「レッスンによって人間の
何が変わりうるか、どのような可能性が劈かれるか」、
ひいては「人間にとって演技レッスンとは何か」、これしか
私の関心はなかった。(『ことばが劈(ひら)かれるとき』p123)

彼にとって、演技のレッスンとは、自分という「からだ」で、
人間としてどう生きるか、という前提の前提にまで立ちもどるような、
きわめて根源的な問いかけだったのでしょう。


わかる、ってどういうこと?


竹内レッスン―ライヴ・アット大阪: 竹内 敏晴

からだの「実感」をベースにして人間や人間同士の
関係性というものをひもといていく探求は、例えば
以下のような話からも分かるとおり、理屈、頭だけ
使ったような理屈とはまた別の世界を、我々に
垣間見せてくれます。

「ああ、これが俺の本当に言いたいことだったんだ」というのは、実は声に発して、相手が受け取ってくれたとき、初めてわかるわけです。自分のほうで、言いたいことを一所懸命に言えば、それは本当にその人が言いたかったことかというと、必ずしもそうじゃない。「これで本当に自分の言いたいことが成立った」と思う瞬間がある。それは結果から言えば、自分も気がつかなかったような、意識の底というか深みから、浮かび上がってくることばだろうと思います。(『竹内レッスン』p48)

この本に記されている参加者たちの座談会では、何に役に立つ、
とか、これがわかった、と簡単に言語化できない「何か」に触れるために
レッスンを続けていることがじわじわと伝わってきて、自らの意識の底の深みと
対面する時間や空間への渇望を感じさせてくれます。


竹内敏晴さんの本は、これ以外も面白いのですが、
とにかくこの面白さ、自分のからだのことすらよくわかっていなかった、
ということが浮き彫りにされてくるこの感じは、ぜひ体感していただきたいと
思います。


この方の本を読むと、なんとも不思議な安らぎを感じるんです。
チョット怪しいですけど。

2014/10/05

第11冊&12冊 もっと人の足下を見る『足の反射療法』&『症例別足もみ療法』

足の反射療法 症例別足もみ療法―1日15分で効果テキメン


■耐えられる痛みは痛みじゃない?
『足裏は語る』と『体癖』を読んだせいでおかげで、
足裏の状態と体の関連を掘り下げてみたくなりました。

ということで、二冊ご紹介。
『症例別足もみ療法』と『足の反射療法』です。

『症例別足もみ療法』の著者、鈴木裕一郎先生は、
靴屋としてドイツのシューマイスターの資格を取得後、
前回紹介した『足裏は語る』の平沢弥一郎先生のもとで
足裏研究の「弟子」となったうえに、今度は中国で
「観趾法」なる足裏療法を学んで帰国した、まさに
足のスペシャリスト。


一方の『足の反射療法』は、プロ仕様の足裏施術の
方法を紹介した本で、近代の足裏療法の祖、米国の
イングハム女史(なぜか、この方は女史をつけて呼ばれる
ことが多い。慣例?)の流れをくむ、ドイツ式の足の
反射療法の本を翻訳したもの。


フットリフレクソロジーの店が至る所にある日本では慰安の
イメージが強く、「治療に用いるもの」というイメージは
あまりない、というのが実情でしょう。


……が、この両書では、かなーりの厄介な病気まで、
ひたすら足を揉み倒すことで治療しています。

『足の反射療法』では、

患者が耐えられる痛さになるまで揉む

という記述がさらりとなされていました。


ってことは、体が悪い場合、施術時間の多くは、
耐えられないような痛み……なわけです。


足ツボ療法は、実際に受けに行った人の話を聞く限り、
メチャクチャ痛いとか、いや気持ちいい程度
だったとか、店や術者、受け手の体調によって
色々な場合を聞きますが、おおむね痛い事自体が
一種のエンターテイメントのようにして
受け止められていることが面白い。


■なぜ足ツボ療法はかくも広まっているのか

曲がりなりにも手での治療をナリワイにしている身からすると、
治すのが目的ならばケチケチせずに、足裏以外も狙って
施術すればいいじゃない、とも思ってしまいますが、
短所と長所は背中合わせ……。


マッサージ師の国家資格を持たない人がリラクゼーションの仕事を
するにあたって選択するには、かなり気の利いた治療法なのでしょう。


なぜなら、足裏揉むだけでは、なかなか重篤な副作用や施術中の事故は
起きづらい(はず)なので。


また、反射区と体の関係が究極的には実証されていない以上、例えば、術後に
内臓の調子がおかしくなっても、術者は「でも足裏しか押してませんよ?」
と居直ることも、できなくはないわけです(どう思われるかはさておき)。


クレームをつけられる可能性が低い手法である、ということは、
経営する、という観点から言えばかなり重要なことですよね。


■セルフケア法のひとつ

あと、足裏療法の何がいいって、自分で自分に出来る事です。


『足の反射療法』は足裏を使った治療法がまだまだ市民権を
得ていない頃に書かれた本であるせいか、自分での施術を
あまり勧めていませんが、『症例別足もみ療法』ではむしろ逆。
自己治療をとことん推奨しております。


……まあ、鈴木先生は治療そのものは生業ではないですから、
そう書けるのかもしれません。


反射区がそこまで人の体の全体を反映しているのか?という
疑問は相変わらずですが、理屈が正しかろうが誤っていようが、
実際にそれなりの効果を実感できている人が少なからずいるのは
間違いなさそうなので、しばらく自分の体で実験してみようと
思います。

2014/09/13

第9&10冊 足から人を観た探求者たち 『足の裏は語る』&『体癖』

足の裏は語る (ちくま文庫) 体癖 (ちくま文庫)

奇しくも、どちらもちくま文庫です。


妙にマニアックな身体論、身体哲学についての本が
出版されるのは、筑摩書房にはきっとそういうのが
大好きな編集さんがいらっしゃるんでしょう。


『足の裏は語る』の著者、故・平沢弥一郎先生は、
「足の裏博士」の異名をとる著名な医学博士で、
人間の足の裏をひたすら計測・研究して50年
その数は何と40万人以上

本書の中でも、男性がタマとサオをズボンのどちらに
入れるのが定位置か、と二千人以上のスポーツマン相手に
検証したり、排泄時の重心変化について女子大で調査したり、
まあ、変態です(褒め言葉です)。


一方の『体癖』の著者、故・野口晴哉先生は、
整体の指導者。整体という言葉が人口に膾炙する
ようになったのは、この方の働きあればこそ、でしょう。

 本書を読めばわかりますが、実は野口先生も、
足の裏の重心配分を測定できる機材を用いて、
「体癖」(野口先生の造語。人間の体の構造や感受性の
類型を12種に分類したもの)研究の一助としたようです。
この方は、一日に百人以上も整体指導したとか。
やはり変態です(褒め言葉です)。


面白いのは、この二人の研究が、ときどき交差すること。
その「交差点」にある考え方は、足裏への重心のかかりかたと生き方、
個性などにある程度の相関があるのではないか、ということです。

心と体は繋がっている……ではなくて、本来境目なんかないって
ことです。ひとことでいえば「心身一如」。

『足の裏は語る』では、

足長を百とした場合重心の位置が、
二十年前は踵から四十七パーセント周辺にあったものが、
最近ではその位置が四十パーセントあたりまで後退してきた

(『足の裏は語る』p96)
……とありますが、それは別に、人が徐々に体を使わなくなっているから、
ではなくて、気の持ちよう、「気構え」、即ち希望を抱いて行動する性質が
落ち込んできているからではないか、という仮説を提示します。

「何だよ、結局は精神論かよ」と侮るなかれ。
この平沢先生、精神状態によって足の裏のコンディションが
どう変わるか、まで延々と観察してきた人なのです。

女性の精神状態があまりよろしくない場合に、小指側が浮く……
といった話が、本書にも登場します(おそらくは、奥様が最初の
実験台だったのではないかと邪推します。余談ですが、本書では、
平沢先生の亭主関白な振る舞いに奥様がキレて、それまで
日々お子様の足裏を記録し続けていた資料を全部燃やしてしまう、
というエピソードまでぶちまけられていて、素敵です)。


野口晴哉先生の「体癖」に至っては、もはや個性と体の状態は
イコールという考え方で、『整体入門』という本には、性格を体操によって
変えられるのでは、という発想まで登場しています。

本書でも、整体指導を受けに来た人たちの体を見て、
「この人は●●種体癖だから、きっと、逆の事を言った方が
言うことを聞くな」みたいなことを考えて指導して結果が
出た話を自慢……もとへ、披露しています。


10歳差くらいの方々なので、いっそのこと共同研究ができていたら
さぞや面白かったろうと、後世から勝手に思うのでありますが、
それぞれの本からうかがえるそれぞれのキャラクターを思うと、
まあ、たぶん組むことはなかっただろうし組んでもすぐケンカ別れ
しそうだなぁ、とは思います(笑)。

人をこんな風な切り口で捉えるのもアリなのか……と、
二冊とも非常に楽しくて目からウロコでした。


余談

こちらの『姿勢のふしぎ』でも、姿勢と精神状態の
関係は論じられています。自閉症の人は重心がランダムに
動揺しやすい、みたいな話もあり、『足の裏は語る』や『体癖』と
ともに読むとまた面白いかもしれません。


姿勢のふしぎ―しなやかな体と心が健康をつくる (ブルーバックス)

『動物感覚』の著者で本人も自閉症のテンプル・グランディンが
「抱きしめ機」と自閉症について自著で語っていますが、皮膚感覚とともに、
重心の動揺がなくなる、というのも重要だったのかもしれません。

 → 参考:第1冊 人間だって動物です『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』







2014/09/09

第8冊 四十にしても惑いまくり! 『身体感覚で『論語』を読みなおす』安田登


身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から: 安田 登

能楽師にしてロルファー(※ロルフィングというアメリカ発の
ボディワークの施術者)でもあり、漢和辞典編集にも関わった
ことがあるという著者が、孔子が活躍していた頃の漢字の字形、
甲骨文・金文までさかのぼり、漢字に込められた身体イメージから
新たな『論語』の読みを提案してみせる、という野心作。


四十になっても、多分、惑ってたっぽい


面白いのは、「心」という字が、孔子の時代はまだ五百年程度の
歴史しかなく、現在の「したごころ」や「りっしんべん」に
当たるパーツを持つ字が、ほとんど存在しなかったこと。



その一例が「惑」です。


カンの良い方は、この時点で「えっ!?」と疑問に思ったかも
しれません。そう、『論語』でも有名な、

「四十而不惑

の「惑」の字は、孔子存命の頃、まだ地上に存在していなかったのです。


では当時、いったいどういう意味で(どのような漢字をイメージして)孔子は
この言葉を語ったのか、というところで、著者は、それは「或」という字だった
のではないか、と推測します。



仮に「境界によって区切ること」を意味する「或」を用いて

四十而不或

と述べていたとすると、

「そんな風に自分を限定しちゃいけない、
もっと自分の可能性を広げなきゃいけない」
(p23)

……という意味になるのです。


全然違うやん。

安田説がより正解に近くて、新たな可能性を探り続けて
いたとしたら、もう、惑いまくりだと思います、孔子。




「惑」を皮切りに、当時まだまだ新興の概念だった
「心」というものとの付き合い方が、現在のわれわれと
違ったのではないか、という風に論を進めて、
『論語』とは、「心」の取り扱いをはじめてマニュアル化
したものなのではないか、と論じます。


著者は、自分が能楽を修行した経験と、漢字研究の成果を
それぞれ駆使して『論語』を「心」の操縦マニュアルとして
読み解いていきます。


漢字を通した、当時の世界観への言及などもありつつ、
前回、当ブログでもネタにした『神々の沈黙』も引用されており、
構想としては、おそらく「近東に限って話をしている」『神々の沈黙』への、
東洋からの「返歌」を目指したのではないかと思われます。


確かに、甲骨文や金文の漢字のデザインから見え隠れする古代中国人たちの
世界観は、意識が「比喩から生まれた世界モデル」であるとする
神々の沈黙』と響き合う感じがします。


古代の身体感覚と現代の我々の溝を埋めるための補助線が、
はるかに現代寄りの「能」でいいのか、という批判もあるかもしれませんが、
古代の漢字とそこに込められていた呪術的な意味や身体感覚を通して
論語を読んでみるという試みは、とにかくユニークです。



2014/08/05

第1冊 人間だって動物です『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』


動物感覚―アニマル・マインドを読み解く

ためになる奇書

 

とにかく、すごい本に出会ってしまったなぁ、という感じです。

『動物感覚』というタイトルではありますが、
本当に色々な読み方ができます。

 実用書であり哲学書であり科学書であり、
みずみずしいエッセイでもあります。

「動物といかに付き合うかについての本」であり、
「人間と動物との違いについての本」であり、
「自閉症についての本」であり、
「自閉症と動物の考え方の類似性についての本」であり、
「人間がどこまで動物で、動物がどこまで人間であるか
についての本」であり。

もしかしたら自己啓発書チックな読み方をして、
「皆が見落としてしまう問題を見つけ出し、解決する方法の手引き」としても、
「人間関係や組織の在り様についてのヒントを
与えてくれる本」としても、
役立てることが可能(かもしれません)。

なぜ、自閉症と動物感覚が関係あるの?


動物についての本が、どうして自閉症に関係するの?
と思われた方もいるかもしれません。

著者のテンプル・グランディンは、
自身も自閉症の動物学者です。

彼女は、自分が自閉症であるがゆえに
動物が何を見、何を感じているかが
わかるという自身の経験から、サヴァン自閉症
の人が示す特異な能力(見たままの絵を書く、
異常な記憶力を持つ、等)と、動物が示す能力
(予知とも思えるような知覚や、膨大な餌場を記憶して
おく空間認知など)が似たもの、もしかしたら同じもの
なのではないか、という着想を得て、その着想を
皮きりに、人間と動物の在り様を様々な角度から
切り出していきます。


この切り口、そして内容が、やたらと私に
響いたのは、おそらく私自身が、
自閉症スペクトラムとか発達障害と呼ばれる
ものに位置付けられてもおかしくないタイプの
性向を持っているから、ということもあると思います。


私は子供の頃、弁当を食べるだけで、 昼休みが
ほぼ終わってしまうくらい、ひどくマイペースでしたし、
また、クラスメートの名前を夏が過ぎる頃まで
憶えなかったり、ひとつ前の席の女の子がメガネを
かけてきただけで、「転校生」と認識したり、といった
具合でしたので、テンプル・グランディンの幼少期の
エピソードも、共感できる部分が少なからずありました。


そういう目で、本書を素直に読んでいくと、
ああ、人間といっても動物だから、こんな行動を
とってしまうのか、と目からウロコが落ち続けます。

 

人間。動物的な、あまりに動物的な


私が本書から受け取ったメッセージのひとつは、

「動物はおどろくほど人間的で、
人間はおどろくほど動物的であり、
人間は、さほど特別な動物ではない」

ということです。

言葉にしてしまえばシンプルですが、例えば、本書では
われわれ人間も動物も、ものごとの間に因果関係を感じる
仕組みをひとしく持っていると説明します。

動物と人間は、「確証バイアス」と学者が呼ぶものを、生まれつきもっていることがわかっている。ふたつの事柄が短時間のあいだに起こると、偶然ではなくて、最初の事柄が2番目の事柄を引き起こしたと信じるようにつくられているのだ。

(中略)

確証バイアスが組みこまれているために生じる不都合は、根拠のない因果関係までたくさん作ってしまうことだ。迷信とは、そういうものだ。たいていの 迷信は、実際には関係のないふたつの事柄が、偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に、たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日にも、たまたま青いシャツを着ていた。それからとは、青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。
 動物は、確証バイアスのおかげで、いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。
(中略)

人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。私たちの脳は、偶然や
思いがけないことではなく、関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも、
相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。私たちが生命を維持する
上で知っておく必要のあるものや、見つける必要があるものを学ばせる脳の同じ
部分が、妄想じみた考えや、陰謀めいた説も生みだすのだ。

(第3章 動物の気持ち p134~136)
 人間が、どれほど自分では理性的に考えているつもりでも、
この確証バイアスからはなかなか自由になれないわけで
人間が知恵をつけたつもりでも、実はものごとの捉え方としては
とっても「動物的」なまま、ということになるのですね。


脳の構造としても、人間は他の動物の脳に比べ、新皮質という最上部の
層が分厚くなっていますが、他の動物の脳を「建て増し」したような構造に
なっている、と言われます。


もっともらしく後知恵をつけても、行動原理はかなり動物的だったりする
のは、こうした脳の構造から言ってもある意味当然と言えば当然なのですが、
動物学者の知見から実例を挙げられると、もはや清々しいくらいです。


著者に言わせれば、新皮質、わけても前頭葉の機能が、
人間の動物的な特殊能力を減じている面もあり、
前頭葉の機能が抑制されている自閉症者に動物的な才能が
開花するのは当然、ということになるかもしれません。


思いあがるな人間


こういうことは人間の十八番だろう、と思われることや、人間ならではの
高度な知能がないと(良くも悪くも)出来なさそうなこと、逆に人間には
とても出来なさそうなことを、動物がやすやすとこなしてしまう例もほんとうに
色々紹介されています。

渡り鳥が六五〇キロの経路を誤らずに憶えたり、ハイイロリスが
木の実を埋めた場所を何百か所も憶えていたり。
戦争をするチンパンジーもいるし、 集団レイプや虐殺をしてみせるイルカもいるし。
クジラは韻を踏んで歌い、ウタスズメは即興でソナタを歌う。

特に私が驚いたのは、以下の例。
(前略)
プレーリードッグのコロニーには、名詞、動詞、形容詞をそなえた意思伝達
システムがあることを発見した。ガニソンプレーリードッグは、どんな種類の
捕食者――人間、タカ、コヨーテ、犬(名詞)――が接近しているのか、
捕食者がどんな速度で移動している(動詞)のか教えあう。人間が銃を手に
しているのかいないのかも知らせる。
(中略)

人間が近づいてくるのを知らせるときには、体の大きさや形ばかりか着ている
服の色(形容詞)まで教える。ほかにもいまだ解読されていない鳴き声は
たくさんある。
(p359-p360)
プレーリードッグがここまでの言語を用いているとは、正直驚きでした。
人間は自らを万物の霊長と思っていたりしますが、賢い、賢くないの尺度が
人間ベースなだけで、まぁ、人間の思い上がりなのかもしれません。

動物だ、と思って生きる


単純に雑学を仕入れるために読んでも充分面白い本ですが、いま
何らかの生きづらさを感じている方にも、うすっぺらな対人関係の本を
100冊読むよりも、これを1冊読むことをお勧めします。


読書に慣れていない方とかは、うすっぺらな本を100冊読むより
大変かもしれませんけど(笑)、内容の面白さと編集者や翻訳者の
技量のおかげで、分厚いのに飽きずに読み進められます。


この本の凄い所は、一読したのち、自閉症もそうでない人も含めた人間に
対しても、動物に対しても、これまでとは明らかに見る目が変わる、ということです。


いきなり本にいどむのはチョット、という方は、著者のTEDでの講演を
ご覧になると良いかと思います。私はこれで、彼女のファンになりました。


動物感覚―アニマル・マインドを読み解く