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2015/01/16

第48~51冊 目指すなら、「意識高い系」より「無意識高い系」。下條信輔祭り 『サブリミナル・マインド』他

「意識できる認知なんて、無意識的に

行われている認知に比べれば貧弱貧弱貧弱ゥ!」



このブログは、無意識やら脳科学やらを
よくとりあげます。これはおそらく、ブログ主が
子どもの頃から、

「自分の見えている世界はどうやらものすごく
偏っているらしい」

という違和感を抱えているから、なのですが、
例えば、

第7冊 神は、まだそこにいるのです 『神々の沈黙
 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


で紹介した何冊かの本は、結構救いになったんです。

要するに、

「人間の意識なんて、わりと最近にできたもので、脳の
機能としては+αくらいのもんで、実は全然未完成」

「意識は、無意識が為したことを後追いで認識して、
もっともらしい解釈、ひどい言い方をするならば、
言い訳をするためのもの」

というようなことが書かれていていました。

今日ご紹介するのは、その無意識的な
認知がどれくらい強力であるか、ということを
認知神経科学の専門家である下條信輔さんが
論じた神本(かみぼん)たち。

何にでも「神」とか気軽につける風潮は
好きじゃないけど、つけちゃいます。


内容の主なテーマは一貫しているので、
どれから読んでもいいと思いますが、
現代社会の変化と意識のかかわりについて
一番濃縮されているものを読みたければ
 『サブリミナル・インパクト』がおすすめです。






リアルよりリアルなもの


本書では、「ニューラル・ハイパー・リアリズム」という概念を提唱していますが、この概念に触れる
だけでも、この本は買う価値があります。

現代社会の「脳をより活性化するものがよりリアルである」
という流れを示したものです。

「非現実的な」という評価そのものが的外れか、少なくとも古すぎるのでしょう。(p104)

神経科学的な表現を敢えてするなら、「脳内を活性化するものこそ最もリアル」と いう割り切った感覚刺激の追求です。さらに「物理的な現実味とは関わりなく」とか、「実際の社会的きずなとも関係なく、社会脳を刺激さえすれば」などと付け加える事もできます(同) 

しびれますね。
ヘタな実写よりはマンガやアニメ、ゲームのほうが感情移入
できてしまったりするのは、この「ニューラル・ハイパー・リアリズム」
社会にあってはむしろ当然の帰結でしょう。

いわゆる「二次元嫁」とかも。

もっとも、こうした特徴はおそらく音楽・映像等の技術が
飛躍的に向上したのと、仕掛ける側が神経科学を用いた

方法論に自覚的になってきているために加速しているもので
あって、おそらく文学、音楽、舞台、美術は昔からこうした
機能は持っていたのだとは思います。

あまたの通信手段、ソーシャルメディアに囲まれて、対人関係への
欲求の一部分だけは、サプリメントでも摂るように満たせるように
なっている現代の特徴をも、がっつり凝縮して説明できる概念だと思います。

余談ながら、こうした特徴ゆえ、現代にはこれまで無かったタイプの
孤独感が生まれているようにも私は感じます。新しいメディアは
新しい回路を開いているようでいて、その実、コミュニケーションの
窓を狭く限定するものでもある。


小窓がやたらたくさんついていて採光もばっちりで
一見、開放的なのに、玄関だけは固く閉ざされている家のような。

余計な人間関係に巻き込まれないように「快」の方向に向かった
結果として、別の生きづらさを背負い込んでしまっているような。
そして、ものごとをリアルを感じるかどうかは、無意識のレベルで
なされてしまうので、その流れに抗うことは実はたいへん難しい。

認知科学的な駆け引きは、もはや呪術合戦


マクドナルドの椅子は客の回転をよくするためにあえて
硬く作ってあるらしいが、では、こういう店側の意図に、
意識的に抗うことはできるのか、ということを例にして、著者は、
知ることは確かに知らないよりはいいでしょうが、
たぶん不十分です。気付いている/知っているだけでは
この場合ほとんど役には立ちません。アウェアネスは自由を
救えません。潜在レベルへのアプローチに対して、顕在的な意識や
意図では抗し切れません。

抗し切れないのはなぜか。そもそも情報処理の効率やスケールが
全然違うのです。潜在過程の効率のよさ、容量の大きさに較べれば、
意識なんてほんの小さな一片です。潜在過程に働きかける要因の方が
はるかに高い持続性、反復性を持っています。(p233~p234)
 とばっさり切っています。

仕掛ける側はより巧妙に「空気」として情報や商品などをデザインし、
それを潜在的な認知過程で処理してしまう受け手は、自らの自由意志と
思ったままに、その「空気」に左右されてしまう、という、平和でちょっと気持ち悪い
状態が加速している、というわけです。
 
せめて、たくさんの中にごく少数いる「マクドの賢い客」となりたいものです。
コマーシャルの世界も政治の世界も宗教の世界も、なにせ現代社会は、
硬い椅子だらけですから。 (p235)

ただ唯一対抗し、防御できる策があるとすれば、まずは情動と潜在認知の
仕組みを知ることです。そして知るだけではなくて、潜在レベルで対抗する策を
自覚的に講じることです。(p237)
と、あります。

じゃあ対抗する策って具体的にはどないすんねん、
というところには本書では触れられていませんが、
このへん↓の本には、対抗策のヒントがありそうに思います。

第38&39冊 今も昔も超能力戦争だ! 『洗脳原論』&『性と呪殺の密教』 

『洗脳原論』の苫米地英人さんも認知科学の研究者(?)で、社会にかけられた
自分の洗脳を解く、とか自分を洗脳し直す、みたいなコンセプトで自己啓発書なんかも
多数出している方で(まあ、その先は超高額セミナーの誘導だったりしますが)、
当たり外れはありますが、当たりの本はべらぼうに面白いです。

また、ほうぼうに講師がいて高額セミナーを開いているNLP(神経言語プログラミング)
なんかも、潜在認知の書き換えを行い、依存症等の治療に効果があるとうたわれて
いているので、この対抗策として使えるものかもしれませんが、まあ、私自身は
本を読んだだけで未経験なので何とも言えず。

効果のあるなしはともかく、社会の仕掛けてくる洗脳に対する護身術まで
ビジネスになっている
ということ自体は面白いと思います。

科学の注目分野のひとつである認知科学の発達によって、
われわれが直接そのプロセスをうかがいしれない潜在認知や情動を
めぐって、呪術合戦のような駆け引きが起こっているわけです。

一周回って、古来の呪術は、認知科学的には十分
根拠のある、実効的な方法だったとわかる日が来る
のかもしれません。

妄想ですが。

とりあえず、今日はここまでにしますが、他の
本も非常に面白いです。オススメです。

意識についての研究の
歴史を概観したければ
『サブリミナル・マインド』


錯覚とか思いこみに特に興味があれば、
『〈意識〉とは何だろうか』 (これは、サントリー
学芸賞まで受賞しています)

 

赤ちゃんの発育や教育に興味があれば、
『まなざしの誕生』

2014/08/19

第7冊 神は、まだそこにいるのです 『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『神々の沈黙』ジュリアン・ジェインズ

第一部完、次回作にご期待ください! → 著者、他界

続編書くよ、と宣言されたまま書かれない
本というのは一杯ありますが、ただ書かれないだけなら
まだしも、書かれないままに著者が他界してしまう、
というのはあまりに切ないパターンであります。

本書は、その典型的な例です。

人間の意識って何だろう、というところに
挑んだ本は多いですが、この本は、古代文献や
古代遺跡の研究から、3000年ほど前まで、
人類に「意識」はなかった……という、
驚きの仮説に到達します。

「意識」はなかった、と言っても、みんな気絶してた、って
意味ではもちろんないです。


この本では最初の方で、意識とは何でないかということを
掘り下げることで、意識とは何か、ということを定義します。


その結果、意識とは、
比喩から生まれた世界のモデル
言語に基づいて創造されたあのアナログ世界
ではないか、という 結論に達します。


……要するに、「人間は頭の中に言葉に基づいた
バーチャルな世界を構築し、それを使って考えている。
これが意識ではないか」という定義に行き着くわけです。


人間は、意識があるから葛藤する。好きだけど嫌い、とか、
イヤだけど長い目で見たらメリットあるかも、とか。


だけど、意識のない頃の人間には葛藤がなかった。
なぜなら、神の声が聞こえたから

意識に先立って、幻聴に基づいたまったく別の精神構造があった
というのが、本書の肝となる仮説です。

駆け足で説明すると、何じゃそりゃという感じがすると
思いますが、ジュリアン・ジェインズは、メソポタミアや
ギリシアの古代文献、それに旧約聖書を淡々とひもとき、
それを証明しようとします。


天の神様の言う通り


例えば、ホメロスの『イーリアス』。
現代の小説であれば、葛藤やら何やらが描かれて然るべき
場面が、神の声によってあっさりと行動が決定されてしまう。
『イーリアス』に出てくる人々は自らの意思がなく
何よりも自由意思という概念そのものがない
「てーんのーかーみーさーまーのいーうーとーおーりー♪」
……という歌遊びがありますが、まさにそれを地でいく
世界だった。

神の声が直接に聞こえていたような記述が続く時代には、
意志や意識という意味合いに解釈できる言葉がなく、
逆に、時代が下り、人々に神の声が聞き取れないという
記述が増えてくると、替わって意志や意識を意味する
言葉が増えてくる。


かつてその神の声は、現代の我々が「幻聴」と呼ぶ現象として、
人の行動を支配していた、というわけです。


この神の声を聞けた心の状態をジュリアン・ジェインズはBicameral Mind
バイキャメラル・マインドと名付けました。直訳すれば、二院制の心。
邦訳では、<二分心>とされています。


自由意志がなくて、頭の中から響いてくる神の声に従って生きるって、
どういうことだろう……?本書には、以下のような記述があります。


個人的野心や個人的怨恨、個人的欲求不満など、
個人的なものは一切存在していなかったが、それは
<二分心>の人間には一個人になるための内なる「空間」も、
一個人になるべきアナログの<私>もなかったからだ。

「個人」なるものがなかった。「私」なるものがなかった。
だから心理的葛藤もなかった。意思決定のストレスもなかった。


現代人が非科学的と思いながらも、意思決定に悩むときに
占いに救いを求めたりするのは、その名残りかもしれません。


神様からの親離れ~意識の獲得


個人的なものが一切存在しないのであれば、同じ神が導く限り、
その小さなコミュニティは比較的平和であったことでしょう
(神が喧嘩しろと命じたら別でしょうけど)。


ただ、古代史を調べると、<二分心>時代の国家間の関係は、
敵対か友好の両極端だったようです。たしかに利害が違う「別の神の民」
に対して神が発する声が、「ナカヨク!」か「ヤッチマイナ!」
の両極端になりそうなのは、それなりに納得できます。


『動物感覚』でも、動物に葛藤はなく、愛憎入り交じった感覚
なんて持たず、愛憎どちらかだけになる、という話がありましたが、
古代人たちもそうしたメンタリティの持ち主だったのかもしれません。


また、<二分心>時代の国家は、ある程度以上の規模になると
あまりはっきりした外的要因がないままに崩壊する事も
ままあったようです。これも、ひとつのコミュニティに属する
人々の頭の中に聞こえてくる「神の声」のブレやズレを、
制御しきれなくなったらコミュニティが崩壊する、という感じで
考えれば確かに納得できます。


その後も文字の隆盛や異種族間の接触の増加、火山噴火による
緊急事態の連続などにより神はどんどん「黙り」はじめます。
こうして、次第に神の声を喪った人類は、「意識」を持ち、
切り離された「個人」となり、個人と個人の「間」が空いた存在、
すなわち「人間」になったのです。



別れても、好きな神

憑依現象や催眠現象、詩や音楽の芸術、統合失調症といったものは、
神の声が聞こえた、<二分心>状態の名残ではないかと本書は説きます。


そして科学でさえ、神を喪った人間が、神の声、あるいはその代わりの
何かを求めているものではないのか、と。キリスト教と科学はある意味
親子のような関係だった、という歴史を知っていると、この辺は読んでいて、
ちょっとグッときます。


<個人>たる<私>に分かたれた人間が、その孤独に耐えきれず、
<二分心>モードに戻りたいと欲している面がどこかにある、というのは
よく納得できるように思います。そうでなきゃ、占いやらスピリチュアリズム
やら自己啓発やらがこんなに大手を振っていないでしょう。


余談ながら、本書を一読して思ったのは、ジュリアン・ジェインズが
存命だったら、『機動戦士ガンダム』とか『新世紀エヴァンゲリオン』を
観てみてほしかった、という思いです。「ニュータイプ」とか「人類補完計画」とか、
<二分心>モードっぽいので。あとは、白川静の本とか。
クラークの『幼年期の終わり』とかは、もしかしたら読んでいたかも。

勝手に続編予想したくなる名著

本書で予告されていた続編、『意識の帰結』は、ジェインズ亡き今、
もう書かれることはありませんが、私なりに、『神々の沈黙』の
延長上にどんなことが論じられるか(論じられてほしいか)、
妄想してみたくなります。

胡散臭くも壮大な<二分心>仮説、ぜひ、一度は
触れてみてください。すごく頭良くなった気分が
味わえます(笑)。

蛇足:勝手に続編予想 

おそらく、未知の続編『意識の帰結』は、駆け足でしか触れられなかった
<二分心>を失って、替わりに意識を得た我々、現在の人類を
よりクローズアップしたものだったと思われます。


自我や自己に関する哲学的な諸問題を、<二分心>仮説を
敷衍してぶった切っていく時に、大事になるのは、いわゆる
自同律の不快(by 埴谷雄高)と我々との付き合い方では
ないかと思います。


<私>であることは、結構たいへんだし、時として、不快なのです。
「自分探し」とは、結局、「探す」という言葉のもとに、今の
<私>から逃走し続けることです。

  ※ 余談 アドラー心理学が受けているのは、この自同律の不快に
  対して「イヤなら、その自分、やめれば?」と言ってのける

  思想だからだと私は考えていますが、それについては稿をあらためます。

まあ、逃げたくなるのも、やむなしか、とも思います。
何せ、これまで<神>がいた座に生まれたのが<私>
なのです。自分の<神>を自分で担当するんですから、
これはちょっと、親離れといっても大仕事です。


ゆえに、<私>であることをチョットやめられる状態を、
人は求め続けているように思えます。酒への耽溺も、
スポーツへの熱狂も、アイドルのライブでの狂騒も、
匿名掲示板の「祭り」での暴走も。


そう、人には「祭り」が必要なのです。
だから人類は、より新たな「祭り」を生み続けてきました。
文学、音楽、演劇、映画、マンガ……そしてゲームやSNS。


……その結果、現在は、おそらく祭りだらけなんです、
至るところが。民俗学でよく言われる、ハレとケの
逆転現象は、もはや究極にまで至っているのではないかと
思います。


おそらく『意識の帰結』は、このハレだらけになった
世界と意識の付き合い方
を考えさせてくれる本に
なるはずだったのだと思います。






その具体的方法は、一言で言えばおそらく「身体性への回帰
ではないかと思うのですが、これ以上深入りすると終わらない気が
するので、また稿を改めます。


……なんてことを語りたくなるくらい、凄い本なんです、これは。

おまけ 関連しそうな本など


かつての、葛藤のない脳内世界がいったいどうなるか、というのは、
ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』が参考になるかもしれません。
こちらの本では、脳科学者である著者が、自らが脳卒中になり
左脳の一部が機能不全に陥った時のことを書いていますが、
左脳の機能がどんどん喪われていく中で、宗教的にも思えるような
安らぎの境地、著者曰く「涅槃(ニルヴァーナ)」を体験しています。



奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫): ジル・ボルト テイラー

※こちらは薄くて、わりあい簡単に読めます。中身は濃いです。

あと、意識は後付けの機能に過ぎないとする、「受動意識仮説」を提唱する
こちらの本たちも、『神々の沈黙』と併読するとより深く納得できるかもしれません。


脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫): 前野 隆司

錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫): 前野 隆司:

あと、意識は現実から0.5秒遅れだ、みたいな話に関連して、
忘れてはいけない名著、


Amazon.co.jp: ユーザーイリュージョン―意識という幻想: トール ノーレットランダーシュ, Tor Norretranders, 柴田 裕之: 本
また、20世紀最大の神秘思想家といわれるグルジェフは、
彼が連想器官(フォーマトリー・アパラタス)と呼ぶ、
言語による果てない連想を促す器官のはたらきを弱めることが、
覚醒への道だと説いています。これは、『神々の沈黙』の読後だと、
<二分心>状態への回帰を目指しているようにも読めます
(ジェィンズはグルジェフの著作からもインスパイアを得ているかも
しれません)。