2015/04/30

第73-75冊 芥川賞作家と呼んでしまうにはもったいない! 円城塔まつり 『道化師の蝶』『Self-Reference ENGINE』『バナナ剥きには最適の日々』

読んで、騙られることの快楽


今回取り上げる本は、円城塔さんの作品たち。

以前も、『屍者の帝国』をネタにしましたが、
今回は、円城作品三冊を取り上げます。

参考 → 第58冊 読むたびに仕掛けに気付く、ネタ&メタづくし小説 『屍者の帝国』

画像を見ても、『道化師の蝶』の帯に

「芥川賞受賞作」

とデカデカと書いてあるのになんだけど、
この方、芥川賞作家と呼んでしまうには
もったいない、です。

いや、こう言っては身も蓋もないんですが、
芥川賞受賞作とか、その作家のその後の
作品が(私にとって)面白かった記憶が、
あんまりないもので。

……というくらい、私にとっては授賞作である
「道化師の蝶」は面白かったんですが、
ただ、読書というのは何かの役に立たないと
いけない、と思う方にはオススメできません(笑)。


「読むこと」そのものの快楽を味わいたい方
向けの作家さんだと思います


下品な例で恐縮ですが、えー、射精したいとか
妊娠したいとかではなく、延々くっついてたい、
みたいな。


例えば、泉鏡花や、江戸川乱歩や、夢野久作や、
筒井康隆が好きな方には手放しでオススメ、
な感じです。

円環、階層、螺旋……

今回取り上げた円城作品の特徴として、

・気付いたら、もとの状態に戻る
・語られている側と語っている側の境界がどんどん危うくなる
・よく似た状況が繰り返すんだけど、何か違うことが起きてくる

……みたいな、感じでしょうか。

「幻想文学的な手法」と一言で言ってしまうと
身も蓋もないんですが、円城作品の面白いところは、
こうした方法論そのものに対して、ちょっと批評的な
距離な置き方をしながら物語が続いていくこと。

その「批評的」というのがどういう感じか知るためには、
例えばこんな例があります。作中、
「熱力学マイナス法則」なる概念が登場しますが、
こんな内容なのです。
・マイナス第三法則:虚構の階層を定める基準値はない
(『バナナ剥きには最適の日々』「コルタサル・パス」)

その文章で描かれていることが、誰にとっての本当なのか。
そもそも本当ではなくて、嘘ではないのか。いやもっとそもそも、
本当か嘘かなんて命題が立てられるのか……?

語ることそのものの危うさを使って、本を読んでいる
わたしやあなたの脳内に構築されていく物語の
枠組みをぐらぐら揺らしたり、崩したり、何もしなかったり(笑)
という仕掛けに酔うのが、私なりの円城作品の楽しみ方です。


だから、多くのミステリー小説のように、物語の鍵穴に
合う鍵がシッカリ提供されて、最後にスッキリする
読後感がないとイヤだ、という方には
逆立ちしてもオススメできない(笑)。


円城作品は、読み終わって、モヤモヤしながら
現実に戻ってみると、そこにも物語の鍵穴を
見つけてしまうような構造になっているので。

ざっと紹介してみる


その面白さを伝えるのは、酒の味を文字化する、みたいなもんで、
何か難しいンですが。

あー、ネタバレっぽいことも書きますけれど、まあ、心配な方は
読まない方がいいですが、バレたところでどうってことないです、
多分。

ここに書いてあることがわかったって、わかんないですから。



道化師の蝶: 円城 塔

表題作『道化師の蝶』は、
解読を拒み続ける作家と小説(?)と、
その解読・解釈を試みる人々の
追いかけっこを楽しんでいるうちに、
読み手も追いかけっこの鬼にされてしまい、
おいてけぼりを食うような、放置プレイ小説と
でも呼びたくなる逸品。


一緒に収録されている「松ノ枝の記」は、
翻訳は創作でもあり、
語られる人は語る人でもある……
という、その双方向性を、語る側と語られる側、
翻訳されるものとオリジナルとが自覚したら
どうなるのか、というお話。



 
Self-Reference ENGINE: 円城 塔

イベントといわれる災厄ののちに、
時間の進み方があらゆる方向に
向かってしまい、因果律くそくらえな
状況になってしまった世界の物語。

必要とあれば時空を巻き戻し、
書き換え、再実行できる世界では、
「現実」とか「現在」なんてものは、
特定の条件を組み合わせた結果の
シミュレーションでしかない、という
何も進展しないし、何も解決しない物語。

そんなものがあるとして、そんなの
面白いのだろうか、と思ったら、これを
試してみてください。



 
バナナ剥きには最適の日々: 円城 塔


短編集。

SFっぽいものから、CDのジャケットの中に
書かれた文章まで。個別に紹介すると
果てがないので、しない。

解説が付いてはいるけれど、それで
特に何かがよくわかるわけではない。
けれど、何かそれでいいのだ、という読後感。

「わからない」ということも一種の心地よい
感動になるのだ、ということがよくわかる
かと思ったらわからなくなる。


以上!

2015/04/14

第72冊 科学リテラシーの生きた実例 『知ろうとすること。』

科学的ってこういうことだよね



「ひとりの科学者が、いかにして震災後、不慣れなツイッターで、
情報発信することにしたのか」という話から、「水素原子の年齢は
138億年で、数々の超新星爆発を経て様々な元素が出来て今に至るのだ」

……という話まで。「科学的」に考えてものごとを知ろうと
することはどういうことなのか、ということが、早野龍五さんの、
震災後のさまざまな苦闘から見えてきます。

よくぞこの安さと薄さにイロイロ詰め込んだなぁ、という本です。
しかも対談形式で、自分に語りかけてもらっているようで
読みやすい。


私は科学関係の話は好きなつもりだったけど、科学的である、
ということがどういうことか、というのは実な根本の根本で
ありながら、実はよくわかっていなかったようです。

例えば、次のような記述を読んで気付かされます。

 その過程で、ぼくは、科学と社会の間に絶対的な断絶がある、
ということに気づかざるを得ませんでした。放射線のことを
知っているとか知らないとか、そういう知識の有無とはまったく
別の次元です。「混乱した状態から、より真実に近い状態と
思える方に向かって、手続きを踏んでいく」というサイエンスと
しての考え方を一般の人たちに理解してもらうのは、とても難しいと
知ったのです。
 科学というのは、間違えるものなんです。ニュートンの
物理学が正しいと思われていた時代に、アインシュタインが
ある微妙な違いに気付く。そのアインシュタインも間違えて
いたことがある。そうやって、科学は書き換えられて進歩していく。
限定的に正しいものなんです。
だから、科学者は「こういう前提に
おいて、この範囲では正しい」というふうに説明しようとする。
でも、これは一般の人にはわかってもらえないのですね。
(p171 あとがきより 傍線引用者)

科学的に出てくる「結論」って、「限定的に正しい」もの
でしかない。

もっというと、「より正しい結論」が出てきた時に踏み台に
できるようになっていないと、科学的とは言えない、という
ことですね。

……という大前提を頭に入れておくと、TwitterやらFacebookやらで
たびたびまわってくる「福島で奇形児が増えた」とかいうような
デマは、科学的な手続きを経たデータかどうか、ということに
着目しさえすれば、ふーん、またデマか、で終わる。

「いやそれは、悪い奴らが隠ぺいしているんでちゃんとした
データは出ないんだけど、心ある産婦人科が明かしてくれたんだ」
みたいな話を真に受ける必要は、まあ、ないでしょう。

デマとの戦いはもどかしい持久戦

早野さんがポケットマネーを出して(!)調査機器を調達して
調査した結果、内部被ばくは、想定されたものよりも
かなり経度であることが分かったそうで、妊娠や出産を
心配する女の子に対しても「まったく問題無い、大丈夫」と言える
ものだったという話が語られます。

ただ、データとして出た地味な結論が、「衝撃的な事実」と騒ぐ
デマをなかなか駆逐できないことに関して、こんなことが語られて
います。


早野 (中略)
さきほども言いましたように、やっぱり放射線に
関しては「量」の問題を踏まえなくてはいけない。
放射線は健康に関して無害なわけではない。ただ、
デマとか間違った情報というのは、福島ではありえないような
高い線量のケースを引き合いに出していて、それをあたかも
福島で起こりうるかのように言ってるんです。それは、
2011年の早い段階では仕方がないケースもあったかもしれない。
ショッキングな警告としての役目はあったのかもしれない。それは、
ぼくは否定しません。
 だけれども、ここまでの時間が過ぎて、これだけのデータが出そろって、
線量の低さも非常に明確にわかってきた。この今の段階で、そういう
話をするのは、ありえないし、あってはならないと思う。
 
糸井 いま早野先生が示されたような、科学者としての誠実で
揺るぎない態度が、ますます必要になりますよね。
 
早野 うん、もどかしいんだけどね。でも、本当に、そう思う。


この「もどかしいんだけど」続ける態度ってのが、自分も含めて
多くの人に足りないもんなんでしょうね。それをやってのけたのが
この早野さんの凄いところなんですが。

今もなおFacebookなんかを立ちあげるととっくにデマだと分かっている
記事がシェアされてきたりして、うんざりすることもしばしばです。

ああ、もどかしい。


甲状腺ガン、見つければいいってもんじゃない


例えば、甲状腺ガンに関する記述。
私はこの記述で、自らの不勉強を思い知らされました。

 甲状腺ガンというのは非常に進行の遅いガンで、
ガンの中では危険度が低いんです。わかりやすくいうと、
ほぼ、命に別状がない。ですから、検査すれば甲状腺に
ガンが見つかるけれども、見つからないまま過ごして、
他の病気で亡くなる保持者の方がとても多いと言われて
いるんです。
 そういった状況を踏まえると、本来であれば知らずに
済んだ異常が、検査によって見つかってしまった子どもに
とって、甲状腺のガンを探すことになんのメリットがあるのか
という意見もあるんです。
 他のガンだったら「早く見つかってよかったね」って
なるんだけど。甲状腺ガンの場合、命に別状がないとはいえ、
ガンはガンだから、既往歴がガンだってことになる。
そうすると、たとえば、生命保険に入る際や、さまざまなところに
影響もあるんですよね。もちろん、診断された方の心理的な負担は
相当大きなものです。
 そういうことまで総合的に考えると、「全国の小学校で大々的に
検査すればいい」と簡単にはいえなくなってしまう。(p115)

こういうコトまで考えねばならないわけで、
甲状腺ガンのことを徹底調査しない政府は
何かを隠ぺいしようとしているのだ、という言説は、
まったくもって実態に即していないことがわかるでしょう。


科学的な態度、というのは、わかりやすい結論に飛びつかず、留保し、
検証し続けることにあるのだ、ということがしみじみと腑に落ちる、
いい本です。読みましょう。

2015/04/09

第67~71冊 脊椎動物五億年スケールの夢から育児論へ 『胎児の世界』~『赤ちゃんはいつ人間になるのか』


Amazon.co.jp: 胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691)): 三木 成夫: 本

二つの「ショック」、と『胎児の世界』


私が子供のころ。
母が流産をしたことがありました。


弟になるはずだった胎児の姿を、
私は直接見ることはありませんでしたが、
実際に見た父から、まだ人のカタチに
なっていなかった、という意味合いのことを
聞いた時には、何を言っているのかはいまひとつ
分からなかったですが、たいそうなショックを受けた
記憶があります。


当時の私は、赤ちゃんというのは、
人間の小さいのがどの時点からかよく
わからないけれどお腹の中に宿り、
そのままある程度大きくなったら出てくる、
というイメージだったからです。


その後、何かの本で、カンガルーの
赤ん坊の姿と、人間の胎児のある時点の
姿がよく似ていることを知り、さらにショックを
受けました。


「全然人間っぽくないぞ?」


と。

それからだいぶ後、タイトルに惹かれて
購入したのが『胎児の世界』。

私の二つのショックを掘り起こし、
生命現象そのものへの深い興味を
かき立ててくれた本です。

生物学? 哲学? 全部だ!


『胎児の世界』は、胎児が発達していく
過程で脊椎動物の進化の歴史を
繰り返していく、という話を軸に、
生命そのものに深く刻まれた進化の
記憶、というものの姿を語って見せます。


本書は、部分部分にご自身の緻密な
研究観察の成果がちりばめられつつも、
科学的に実証不可能なレベルの壮大な
思索を展開してみせている点で、
科学入門書というよりは哲学書や詩集、
エッセイ集に見えます。


著者の三木成夫さんという方は、
解剖学・発生学の研究者でありますが、
それらを貫いて響く「三木生命哲学」とでも
言うべきもののおかげで、とかく無味乾燥に
なりがちな解剖学・発生学がつながって、
輝いて見えてきます。


かの吉本隆明さんもこの著者のことを知って
たいそうショックを受けた、と『心とは何か』で
書いていました。

Amazon.co.jp: 心とは何か―心的現象論入門: 吉本 隆明: 本



でも、私がこの本を推すのは、そうした
筆致に垣間見える、三木成夫さんの、
知の探究者としての狂おしいほどの情熱……
手早く言ってしまえば「マッドサイエンティスト」の
発する「空気」ゆえです。

 いったい、生物はどうしてリズムを知るのか。たとえば、女性の排卵は月の公転と一致して、左右の卵巣から交互に一個ずつ体腔内に排卵されるが、 この暗黒の体腔のなかで、かれらはいかにして月齢を知るのか。その観測はいかにしてなされるのか。かれらは、たとえば、感覚器官の潜望鏡を体腔から外に突きだして、しげしげと月を眺めているのか。   
 この問題は、魚鳥が移動するとき、その時刻と方角をいかにしてキャッチするかという問いに集約される。羅針盤も 天体儀ももたないかれらが、時節到来とともに故郷と餌場の方向に正確に頭を向けて出発する。どのようなからくりがそこに隠されているのだろう? 
 とくに戦後の生物学はこの問題に真剣に取り組み、数多くのメカニズムを神経生理学的に解明してきた。しかし、その絶妙のメカニズムがわかれば わかるほど、ますます謎が深まっていくというのは、どういうことなのであろう?この問題の指針はただ一つ、それは、卵巣とは全体が一個の「生きた惑星」で はないか、ということだ。いや、この地球に生きるすべての細胞はみな天体ではないのか……(改行引用者)

何となく、言いたいことは伝わりますでしょうか。

科学と哲学が今よりずっと未分化であった19世紀の
趣があります。いや、バカにしているわけではなく。

科学が事象を細かく分けて分析していく緻密さ・精確さ
を増していくにつれて、なかなかこういう文学めいた
切り口で書かれた本にはお目にかかれません。



内臓とこころ (河出文庫): 三木 成夫


こちらは更に一歩。

人間のこころの発達に、内臓の状態がどう
関わっているか、ということを語った一冊。

排泄や空腹といったものを通じた
快不快というものがこころを育んでいくのだ、
という、生理学と心理学を結び付けようという試みで、
これがまた面白い。

講演記録をもとにしたものなので、『胎児の世界』とは
また違う三木節の面白さが際立ちます。


そして、マッドな弟子へ。


そして三木成夫さんの謦咳に接したひとりで
歯科医師の西原克成さんは、この三木さんの
「マッド」っぷりの継承者、かもしれません。


その西原克成さんが育児に関わる本を
書いています。

赤ちゃんはいつ「人間」になるのか―「育児常識」は危険だらけ: 西原 克成: 本


赤ちゃんを、

 「人類に至る進化の歴史のまだ途上に
 ある生物として見る」

という視点にはちょっと驚かされますが、
例えば、赤ちゃんは、口で乳を飲みながら呼吸をできるが、
大人はこのようなことはできない、という話が出てきます。

実はあらゆる哺乳動物の中で、ミルクにむせかえったり、
あるいは食物が喉に詰まって窒息するというのは人間、
それも成長した人間だけに特有のことなのです。実際、
イヌやネコは赤ちゃん同様に息継ぎせずに餌を食べ続ける
ことができます。赤ちゃんの喉の仕組みは、実は、このイヌや
ネコ、サルなどという動物の喉と、あまり変わることがありません。
つまり、赤ちゃんの喉は、まさに「人間以前」であるわけです。(p22)

といった話を皮切りに、子どもの鼻呼吸をシッカリ体得させる
ことが、子どものその後の人生での健康を維持増進するために
いかに重要か、そのためにはどうすべきか、という論展開に
つながっていきます。

この話のスケールの広がり、さすがと言うべきでしょうが、
この本は西原本の中ではかなりおとなしい部類に属するもので、
例えば、

「心肺同時移植を受けた患者は、すっかりドナーの
性格に入れ替わってしまう」

……という事例を引き、内臓こそが心の本体(?)で
あるとした本がこちらです。



内臓が生みだす心 (NHKブックス): 西原 克成: 本


……で、内臓とこころの相関関係という、師匠から
受け継いだテーマそのものもなかなか面白いのですが、
この本の中に、重力対応進化論という、重力との相関関係によって
生物が進化してきたのだ、というかなり面白い説が出て来ます。


 生物は重力が進化させた―実験で検証された新しい進化の法則 (ブルーバックス): 西原 克成: 本
 
こちらの本では、その重力進化論を実証するためにサメを地上に
引き揚げてむりやり肺呼吸に切り替えさせる
ような実験をしたり……みたいな話もあり、その筆の
オーバーヒート気味な感じがまた、科学書としての価値を
危うくしながらも(笑)、未知の世界へ独自理論で切り込んでいく
気持ちよさのようなものを感じさせ、何とも言えぬ魅力を
醸し出すのです。


師弟ともに、その論じるところは、現在の厳密な科学的検証に
耐える理論か……という点に関しては、ちょっと留保の必要ありかとは
思いますが、その危ういラインというのは、ある意味でまだ珍説奇説が
舞い踊ることのできるフロンティアでもあるわけで、そういうのが
好きな方には、ぜひご一読をお勧めいたします。