2015/10/08

第84冊&85冊 身体の中で何が起こっているか、トコトン見よう『関節内運動学―4D‐CTで解き明かす』『運動療法の「なぜ?」がわかる超音波解剖』

解剖学という学問は、人体に関する限り、
基本的には「死体解剖学(by 野口三千三)」であります。


人間の生体解剖は倫理的に問題がありますし、
解剖している時点で、人体は通常とはだいぶ異なる
挙動をしているかもしれないわけです。


人体を小宇宙(コスモとは読みませんよ)と見なす、
東洋医学的身体観が生まれたりするのも、
むべなるかな。


余談ながら、人間の身体の働きを、昔の中国では
「内景図」なる図で示していますが、ググってみると
面白いですよ。人の身体をこんな風に解釈してたのか……!
と。


さて、もとへ。


で、人類の技術の進歩が可能にしたのは、体の奥の、
関節や筋肉の運動を外から観る、という離れ技。


関節内運動学―4D‐CTで解き明かす
関節内運動学―4D‐CTで解き明かす


4D-CTは、今ではよく胎児の顔を見るのに
使われたりもする技術ですが、いやはや。

これは、関節の細かい動き(上腕骨は確かに
滑りながら転がってるなー、とか)がよくわかります。

AKAなんかで狙っているような「関節内運動(関節包内運動)」を
体の外から生み出すにはどうしたらいいか、というヒントになると
思います。


運動療法の「なぜ?」がわかる超音波解剖 [Web動画付]
運動療法の「なぜ?」がわかる超音波解剖


こちらも、超音波エコーの画像で、ストレッチや特定の運動によって
起きる、ナマでは見られない、筋肉のうごめく姿を見てやろう……
というコンセプトの本です。


4Dスキャンに比べると、モノクロな上に平面的なので、
本の解説なしだと解剖学を学んでいてもなかなかイメージ
しづらいですが、筋肉が、ウネウネビクビクユラユラと動くさまが
見えるのは、超音波エコーならではだと思います。


マッサージなどの手技療法はただ揉むのではなく、
筋肉そのものの動きを引き出し、邪魔しないことで、
まったく別次元のように効き方が変わりますが、
皮膚の下で動く筋肉のイメージを、この本で脳内に
焼きつけるのは、それなりに意味があるように思えます。





まあ、たまには治療屋らしい本を読んでますよ、ということで。

2015/06/29

第83冊 人の死なない沙村マンガ、うなれ沙村節 『波よ聞いてくれ』

25歳のカレー屋店員が、飲み屋で失恋話を
ぶちまけたことをキッカケに、ラジオMCとしての
人生を歩む……のか?(笑)


波よ聞いてくれ(1): 沙村 広明: 本

とにかく主人公のセリフの切れ味が素晴らしい。


ここで書くのも野暮だけど、第一話で初めてマイクの前に
立つ主人公ミナレの暴走っぷりが心地よい。



まあ、ここで第一話読めるんで、騙されたと思って
読んでみてください。
http://www.moae.jp/comic/namiyokiitekure/1



あと、本編で大笑いした後は、カバーを外して再度大笑いすべし、です。

第82冊 石高はヴァーチャル? 『武士の家計簿』

ベストセラーは逆に手にとりづらい難儀な性格なんですが、
これ、もっと早くに読んでおけばよかったと思うくらいに
面白いです。


武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書): 磯田 道史


学者でなかったら週刊誌の記者になりたかったと
いうくらいに詮索好きな著者ならではの視点で、
綿密につけられた家計簿、猪山家文書をもとに
当時の世相を読み解く、という切り口が新鮮。


家計簿それ自体ではただの文字の羅列だが、そこを
読み解いていく磯田先生の粘着質(褒め言葉です)な
姿勢にはただただ敬服。


石高はヴァーチャルなもの


本書ではじめて知ったのは、徳川時代の武士は、「石高」と
いっても大部分はおのれの知行地を見ることなく死んでいった、
つまり実際の領民と年貢の管理運用は、幕藩体制の全国統治の
しくみに組み込まれて回されていた、ということ。


まあ、現代で言う、大家業(建物のメンテナンス&家賃の管理など)を
管理会社が請け負い、オーナーはそのあがりをもらう、という仕組みに
近い感じと理解していますが、つまり、武士にとって石高は自分の領地で
領民がリアルに収穫したもの……というよりは、数字として表れてくる
ヴァーチャルなものだった、ということです。


地縁がきわめて薄い状態だったわけで、年貢による「不労所得」を
武士が奪われることになる明治維新という劇的な体制変更、改革に
移行するにあたって、それがいかに有利だったか、という視点は実に
面白いところです。


身分相応のコスト

武士の身分にあるだけで、家禄が与えられるのに、
「武士はくわねど高楊枝」なんていうことわざが
生まれるくらいに困窮してしまうのは、なぜ……?
という疑問にも、その身分でいることにコストがかかるのだ、
という切り口で磯田先生と猪山家文書はスッキリ説明してくれます。


武士と言うものは、とにかくその身分であることに対して
コストがかかった、ということです。年中行事に親戚などとの
付き合い、賓客のもてなし、神社への寄進などなど。


経済的に困窮し、武士の魂とよく言われる刀を売り払っている
ような状況であっても、寄進はチャンとおこなっているあたり、
現代のわれわれの感覚からすると何とも不思議なほどです。


歴史とは過去と現在のキャッチボールである

……という言葉は著者があとがきで紹介している言葉ですが、
家計簿というごくプライベートな文書から、傍証や先行研究を縦横に
駆使しながら江戸期~明治期の姿を描いてみせたワザは、
とにかく凄い。


売れた本への食わず嫌いで読まないのは勿体ないほどです。
ぜひご一読を。

第80冊&81冊 「場」をつくるための2冊 『人が集まる「つなぎ場」のつくり方』&『フルサトをつくる』

自分でも治療院というカタチで「場」を作るのに
関わったから、尚更そう思うのかもしれないですが、
その「場」がなければ生まれない出会いがあったり、
その「場」があるから出来ること、というものが、確実に
あります。


ノマド化もよいですが、オフィスに人が集まって仕事する
ことにも、ただ直接話せてコミュニケーションが取りやすいから、
ということ以上の何かがあります。


ノマドがブームになった後に、シェアオフィスやレンタルオフィスなど
が巷に増えはじめ、ノマドとオフィスワークの「いいとこどり」を
しようという流れが生まれたのはその証左でしょう。


さて、話が逸れましたが。


今日ご紹介する二冊は、「場」をいかにして作るか、ということを
かなり違う角度、目的で論じた本。


人が集まる「つなぎ場」のつくり方 -都市型茶室「6次元」の発想とは ナカムラクニオ


一冊目は、知る人ぞ知るカフェ(というにはあまりにも
色々なことが起きる場所ですが)「6次元」のオーナーの本。


人と人の出会う場所を、どうやって作っていくのか、という
哲学と、実際に開店してからの紆余曲折、カフェで行ったイベントの
記録や、「6次元」ファンの著名人のコメントなどなど盛りだくさんで、
こういう考え方もありか、と目からウロコです。


著名人がいっぱい来るのは、筆者が元放送業界の人だからでは
ないか、という批判もアマゾンのレビューなんかにはありますが、
まあ、それはそれです。


「○○ナイト」と称して、普通スポットが当たりづらい活躍をしている
人を招いて語り合える場にする、など、趣味や興味を軸にした
コミュニティづくりのためにヒントになりそうなアイデアが、かなり
みっちり詰まっています。


飲食業をこなせるマメさが自分にあれば、ちょっとやってみたいな、と
店作りしたくなってみるような本です。


 
フルサトをつくる: 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方 伊藤 洋志, pha


で、まただいぶ切り口の違う本。
こちら、サブタイトルがほぼすべてを表わしておりますが(笑)。


地方に、低予算で、しかもそこに行けばとりあえず衣食住は
確保できるようなセカンドハウスを持つというコンセプト。


伊藤さんの前著である『ナリワイをつくる』と合わせて読むことで、
仕事と生活圏という、人生を大幅に左右する要素を自分でコントロール
していくライフスタイルが浮かび上がってきます。


共著のphaさんも『ニートの歩き方』で有名ですが、この本と合わせて読むと、
働かない生き方が具体性を持ってあらわれてきます。


生活する、働く、ってことの意味とかにモヤモヤしている方には、
生き方そのものを問い直すキッカケになるような本だと思います。


ぜひお楽しみあれ。

⇒参考:第29~32冊 働くってどんなことか考え直す
『シャドウ・ワーク』『ナリワイをつくる』ほか2冊


2015/05/29

第78冊&79冊 心霊世界をとくと味わう対談集 『うわさの人物』&『心霊づきあい』

「実は僕、死神を見たことが三度ぐらいあるんですよ」(ハマサイ氏)

霊が見えちゃうとか聞こえちゃうとか分かっちゃう、
みたいな話にはむかーしから興味があるんですが、
姉妹編と言ってもいいこの2冊は、霊的な世界に縁が
ある人々と、作家の加門七海さんとの対談本。


オカルト系の本は、極端に怖い話や、説教くさい
話に行きがちなんですが、これらの本は、対談形式の
おかげか、読み物としてするすると読めました。


あ、怖い話系とか、説教くさい系の本がつまらないってわけではなく。
面白いモンは面白いンですよ?これとかこれとか。念のため。

 参考:第53冊&第54冊 意識の奥底から聞こえる「声」『神に追われて』&『ドグラ・マグラ』
 http://sanmando.blogspot.jp/2015/01/5354.html


 参考:第62冊 霊界との清く正しいお付き合い 『いかにして高次の世界を認識するか』
 http://sanmando.blogspot.com/2015/03/62.html


さて、参りましょう。

 うわさの人物―神霊と生きる人々 (集英社文庫): 加門 七海

こちらは霊能者9人へのインタビュー本。

超能力者に修験者、ユタに、占いの的中するエステティシャンまで、
まあ、錚々たるメンバーです。

自分に霊能なんて無い、という人も数人いらっしゃるのですが、

 「いや、それどう考えても霊能力だろ!」

とツッコミたくなるような、スゴイ体験の数々が語られますが、
彼らが謙遜して見えるのは、彼らにとってはそれが日常だから、
なのかもしれません。


心霊づきあい (MF文庫ダ・ヴィンチ): 加門七海

こちらは、プロの霊能力者というよりは、霊的な
ことに造詣の深い……あるいはそうした体験を
多くしている著名人がメイン。


個人的には、CLAMPやグレートサスケがいたことにびっくり。
トリの稲川淳二はさすがの風格。


2冊合わせて20人もの人々がインタビューされている
わけですが、個人的に特に面白かったのは、「昼は敏腕女社長、
夜は霊能者」の井川浩子さんへのインタビュー(『うわさの人物』
所収)。

霊能力の師について、何か面白いエピソードはないか、と聞かれた時に

井川 うーん、力比べみたいなことをしていたときかな。部屋があって「入ってはだめだよ」と言われて、その部屋の真ん中に、御札がトンと立ててあるんです。それで、ピシッピシッと、将棋の駒を指すような音がする、私にはわからないんですけど、お婆ちゃんには相手が何かを仕掛けているとわかっているらしく、音より速く一カ所に目を向ける。と、そこがまたビシビシッと鳴る。 
 おそらく、お婆ちゃんも何かやっているんですよ。つまり、目に見えない将棋、一種の遊びですね。ただ入っちゃいけないとは言われたので、まったく安全なものではなかったのだと思います。同じようなレベルの人と、遊んでいたんでしょうね。 

加門 嫌な遊びですね(笑)。

なんか楽しそうですよね(笑)。

この世のどこかでは、ホンモノの能力者同士がこんなことをしている世界が
あると思うだけで、ちょっと胸熱でございます。

フシギな世界が好きな方は、ぜひ二冊合わせて読みましょう。

2015/05/27

第76冊&第77冊 巨大な「空気」との戦い方 『ココ・シャネルという生き方』&『宮武外骨』

さて、今回は評伝モノを2冊。


一方はデザイナー、一方はジャーナリスト。

まったく接点のない二人ですが、共通しているのは、
それぞれ、とてつもなく強大な敵と戦った人生である、
という点ですね。

デザイナー、シャネルは、フランスの社交界や女性軽視の
風潮、それに既存のモードと。

ジャーナリスト、宮武外骨は、明治大正昭和の日本政府の
体制、とりわけ言論への統制と身分格差のありようと。

戦い続きの人生で、評伝を追うだけでもため息が出るくらい
忙しい生きざまですが、それでも自由に、好き勝手に、
たぶん楽しく生きて、亡くなったのではないか、と
いう点で、人生、ここまでやる人もいるのか、と思わせてくれる
二冊です。

ココ・シャネルという生き方 山口 路子


とにかく働き、戦う女


絶対にふだんの自分では読まないジャンル、という
ものを、たまにつまみ食いすることにしています。


これも、その「つまみ食い」した本なのですが、
いや、意外に面白かったです。


恥ずかしながら、シャネルのことは、「マークが
カッコいいなぁ」ということと、マリリン・モンローが、
寝るときの服装について聞かれたときに
「シャネルのNO.5」と答えた(つまり裸!?)という
エピソードくらいしか知らなかったのですが。


シャネルというブランドを築き上げたココ・シャネルこと
ガブリエル・シャネルの人生は、波乱万丈という言葉では
足りないくらいに激しくて、しかもその激しさに敢然と
立ち向かう姿は、超絶カッコエエです。


シャネルの人生から得られる何か


本書は、

ガブリエル・シャネルは、コレクションのショーの最後をウエディングドレスで飾ったことがなかった

……という「謎」から、シャネルの人生を読み解く。

基本的には時間軸に沿って書かれている伝記なのですが、
章ごとに「message from CHANEL」なるパートが設けられ、
シャネルの生き様を簡潔な言葉にまとめつつ、分析しています。
例えば、

・人生の一番は、一つだけ 
・うまくいかないときは、動かない
・自分のために、それをする

などなど。

自己啓発書のニオイがニガテな方は、うわっと思うかもしれませんし、
著者の思いが乗りすぎている感もあるので、賛否両論分かれるところでしょうが、
それでも、シャネルの生き方を切り取って理解するには、親切な組み立てです。

仕事が好きすぎて「働けない日曜が嫌い」というくらいに、
極大までパラメータを仕事に割り振ったシャネルの生き方が、
そのまま我々の参考になるのかならないのかでいえば、
あんまりならないような気もするんですが(笑)。


金と権力は、自分の愛する美のために


多くの芸術家と親交があった、というのもこの本で初めて
知りました。パブロ・ピカソにジャン・コクトー、ストラヴィンスキー……。

仕事でがっつり儲けて、必要とあらば、芸術家たちの
パトロンを買って出ることもしばしば。

20世紀前半の文学絵画音楽といった世界にとっては、
恩人と言えるかもしれません。素敵。

そして70歳を超えて、過去の人となりつつあったシャネルが、モード界に
カムバックしようとして、ある女優に「なんでまた、厄介なことをはじめたの?」と
問われ、返した言葉が、べらぼうにカッコいいんです。

「すごくうんざりしているの。あなたなんかにわからない」

この闘争心、自信。

近くにいたら大変な人なんでしょうけれど、結局彼女のワガママは、
世界を変えたのです。

あっ、ウェディングドレスに対する問いは、ちゃんと本の最後で解かれます。



で、もう一冊。

宮武外骨伝 吉野 孝雄


パロディで戦う


宮武外骨。


反体制・反権力のジャーナリストとして有名なんですが、
その「戦い方」が、とにかく体制・権力の在り様を風刺して
茶化しまくる……という点に特徴があります。


例えば、自らの発行する雑誌の中で大日本帝国憲法の
条文のパロディで、

「大日本頓智研法」

なるものを発表、時の政府の痛い所を風刺。不敬罪で
懲役を喰らいます。


官吏侮辱、秩序壊乱、風俗壊乱の罪に問われ続けるも、
刑を喰らったこと自体を記事のネタにし、
獄中にあっては、周囲の囚人たちと結託して、
前代未聞の獄中出版を実行。


「骨董協会雑誌」という雑誌を発行するも、コスト高の
雑誌を維持するだけの売上を維持できず、借金を
抱えたまま台湾に移住して鶏を育てて糊口をしのぐも、
文筆への欲望おさえがたく、台湾でのできごとをまた
印刷して本土の友人たちへ書き送る。

……など、とにかく、どんな状況にあっても文章を書き、
本を出すことを続けたがる人なんですね。


伏せ字のおかしさを問う伏せ字



個人的に大好きなのは、日露戦争当時の滑稽新聞に
掲載された「秘密外の○○」という記事。


こちらで全文(?)を読めますが、一部引きますと、

今の○○軍○○事○當○○局○○○者は○○○○つ○ま○ら○ぬ○○事までも秘密○○秘密○○○と○○○云ふ○○て○○○○新聞に○○○書○か○さぬ○○事に○して○○居るから○○○新聞屋○○は○○○○聴いた○○○事を○○○載せ○○○○られ○○得ず○○して○○丸々○○○づくし○の記事なども○○○○多い○○○是は○○つまり○○○當局者の○○○○○尻の○○穴の○○狭い○はなしで度胸が○○無さ○○○○過ぎる○○○○○○様○○○だ

この面白さ、伝わりますでしょうか。

当時は、検閲にひっかかりそうな部分は伏せ字として○○と
表記されていたわけですが、この文章、○○を飛ばして読んで
いっこうに差支えがないように書かれているんです。

当時の検閲のありようそのものを茶化すネタだったわけです。


変人は変人を呼ぶ


この本は、ジャーナリスト、編集者としてのこうした外骨の戦いを、
家族友人との関係などを添えながら描き出しており、周囲の
人々の苦労もよく分かるようになっています(笑)。

この本で初めて知ったのは、かの有名な南方熊楠や、今や
日本有数の広告代理店である博報堂の創業者、瀬木博尚との
親交。

民俗学を正統な学問たらんとする柳田國男からしたら、低劣な記事で
人々を煽っているようにみえる外骨の雑誌に、熊楠が寄稿するをいやがった、
なんていう話は、なるほどと思えるところです。



……ということで、巨大な敵と戦った人たちの評伝二冊をご紹介しました。
二人とも何が凄いって、とにかく「徹底的」ってことです。

富と権力と名声を得た正面突破。
諧謔趣味をまじえた言論によるゲリラ戦法。

でも、彼らが戦いを挑んでいたものは、今もなお、弱まったり、形を
変えたりはしていますが、健在です。

まあ、それを打倒できないまでも、せめてヤラれないように
生きていくために、こうした本に触れてみるのもいいのではないかな、
とも、思うのです。

2015/04/30

第73-75冊 芥川賞作家と呼んでしまうにはもったいない! 円城塔まつり 『道化師の蝶』『Self-Reference ENGINE』『バナナ剥きには最適の日々』

読んで、騙られることの快楽


今回取り上げる本は、円城塔さんの作品たち。

以前も、『屍者の帝国』をネタにしましたが、
今回は、円城作品三冊を取り上げます。

参考 → 第58冊 読むたびに仕掛けに気付く、ネタ&メタづくし小説 『屍者の帝国』

画像を見ても、『道化師の蝶』の帯に

「芥川賞受賞作」

とデカデカと書いてあるのになんだけど、
この方、芥川賞作家と呼んでしまうには
もったいない、です。

いや、こう言っては身も蓋もないんですが、
芥川賞受賞作とか、その作家のその後の
作品が(私にとって)面白かった記憶が、
あんまりないもので。

……というくらい、私にとっては授賞作である
「道化師の蝶」は面白かったんですが、
ただ、読書というのは何かの役に立たないと
いけない、と思う方にはオススメできません(笑)。


「読むこと」そのものの快楽を味わいたい方
向けの作家さんだと思います


下品な例で恐縮ですが、えー、射精したいとか
妊娠したいとかではなく、延々くっついてたい、
みたいな。


例えば、泉鏡花や、江戸川乱歩や、夢野久作や、
筒井康隆が好きな方には手放しでオススメ、
な感じです。

円環、階層、螺旋……

今回取り上げた円城作品の特徴として、

・気付いたら、もとの状態に戻る
・語られている側と語っている側の境界がどんどん危うくなる
・よく似た状況が繰り返すんだけど、何か違うことが起きてくる

……みたいな、感じでしょうか。

「幻想文学的な手法」と一言で言ってしまうと
身も蓋もないんですが、円城作品の面白いところは、
こうした方法論そのものに対して、ちょっと批評的な
距離な置き方をしながら物語が続いていくこと。

その「批評的」というのがどういう感じか知るためには、
例えばこんな例があります。作中、
「熱力学マイナス法則」なる概念が登場しますが、
こんな内容なのです。
・マイナス第三法則:虚構の階層を定める基準値はない
(『バナナ剥きには最適の日々』「コルタサル・パス」)

その文章で描かれていることが、誰にとっての本当なのか。
そもそも本当ではなくて、嘘ではないのか。いやもっとそもそも、
本当か嘘かなんて命題が立てられるのか……?

語ることそのものの危うさを使って、本を読んでいる
わたしやあなたの脳内に構築されていく物語の
枠組みをぐらぐら揺らしたり、崩したり、何もしなかったり(笑)
という仕掛けに酔うのが、私なりの円城作品の楽しみ方です。


だから、多くのミステリー小説のように、物語の鍵穴に
合う鍵がシッカリ提供されて、最後にスッキリする
読後感がないとイヤだ、という方には
逆立ちしてもオススメできない(笑)。


円城作品は、読み終わって、モヤモヤしながら
現実に戻ってみると、そこにも物語の鍵穴を
見つけてしまうような構造になっているので。

ざっと紹介してみる


その面白さを伝えるのは、酒の味を文字化する、みたいなもんで、
何か難しいンですが。

あー、ネタバレっぽいことも書きますけれど、まあ、心配な方は
読まない方がいいですが、バレたところでどうってことないです、
多分。

ここに書いてあることがわかったって、わかんないですから。



道化師の蝶: 円城 塔

表題作『道化師の蝶』は、
解読を拒み続ける作家と小説(?)と、
その解読・解釈を試みる人々の
追いかけっこを楽しんでいるうちに、
読み手も追いかけっこの鬼にされてしまい、
おいてけぼりを食うような、放置プレイ小説と
でも呼びたくなる逸品。


一緒に収録されている「松ノ枝の記」は、
翻訳は創作でもあり、
語られる人は語る人でもある……
という、その双方向性を、語る側と語られる側、
翻訳されるものとオリジナルとが自覚したら
どうなるのか、というお話。



 
Self-Reference ENGINE: 円城 塔

イベントといわれる災厄ののちに、
時間の進み方があらゆる方向に
向かってしまい、因果律くそくらえな
状況になってしまった世界の物語。

必要とあれば時空を巻き戻し、
書き換え、再実行できる世界では、
「現実」とか「現在」なんてものは、
特定の条件を組み合わせた結果の
シミュレーションでしかない、という
何も進展しないし、何も解決しない物語。

そんなものがあるとして、そんなの
面白いのだろうか、と思ったら、これを
試してみてください。



 
バナナ剥きには最適の日々: 円城 塔


短編集。

SFっぽいものから、CDのジャケットの中に
書かれた文章まで。個別に紹介すると
果てがないので、しない。

解説が付いてはいるけれど、それで
特に何かがよくわかるわけではない。
けれど、何かそれでいいのだ、という読後感。

「わからない」ということも一種の心地よい
感動になるのだ、ということがよくわかる
かと思ったらわからなくなる。


以上!

2015/04/14

第72冊 科学リテラシーの生きた実例 『知ろうとすること。』

科学的ってこういうことだよね



「ひとりの科学者が、いかにして震災後、不慣れなツイッターで、
情報発信することにしたのか」という話から、「水素原子の年齢は
138億年で、数々の超新星爆発を経て様々な元素が出来て今に至るのだ」

……という話まで。「科学的」に考えてものごとを知ろうと
することはどういうことなのか、ということが、早野龍五さんの、
震災後のさまざまな苦闘から見えてきます。

よくぞこの安さと薄さにイロイロ詰め込んだなぁ、という本です。
しかも対談形式で、自分に語りかけてもらっているようで
読みやすい。


私は科学関係の話は好きなつもりだったけど、科学的である、
ということがどういうことか、というのは実な根本の根本で
ありながら、実はよくわかっていなかったようです。

例えば、次のような記述を読んで気付かされます。

 その過程で、ぼくは、科学と社会の間に絶対的な断絶がある、
ということに気づかざるを得ませんでした。放射線のことを
知っているとか知らないとか、そういう知識の有無とはまったく
別の次元です。「混乱した状態から、より真実に近い状態と
思える方に向かって、手続きを踏んでいく」というサイエンスと
しての考え方を一般の人たちに理解してもらうのは、とても難しいと
知ったのです。
 科学というのは、間違えるものなんです。ニュートンの
物理学が正しいと思われていた時代に、アインシュタインが
ある微妙な違いに気付く。そのアインシュタインも間違えて
いたことがある。そうやって、科学は書き換えられて進歩していく。
限定的に正しいものなんです。
だから、科学者は「こういう前提に
おいて、この範囲では正しい」というふうに説明しようとする。
でも、これは一般の人にはわかってもらえないのですね。
(p171 あとがきより 傍線引用者)

科学的に出てくる「結論」って、「限定的に正しい」もの
でしかない。

もっというと、「より正しい結論」が出てきた時に踏み台に
できるようになっていないと、科学的とは言えない、という
ことですね。

……という大前提を頭に入れておくと、TwitterやらFacebookやらで
たびたびまわってくる「福島で奇形児が増えた」とかいうような
デマは、科学的な手続きを経たデータかどうか、ということに
着目しさえすれば、ふーん、またデマか、で終わる。

「いやそれは、悪い奴らが隠ぺいしているんでちゃんとした
データは出ないんだけど、心ある産婦人科が明かしてくれたんだ」
みたいな話を真に受ける必要は、まあ、ないでしょう。

デマとの戦いはもどかしい持久戦

早野さんがポケットマネーを出して(!)調査機器を調達して
調査した結果、内部被ばくは、想定されたものよりも
かなり経度であることが分かったそうで、妊娠や出産を
心配する女の子に対しても「まったく問題無い、大丈夫」と言える
ものだったという話が語られます。

ただ、データとして出た地味な結論が、「衝撃的な事実」と騒ぐ
デマをなかなか駆逐できないことに関して、こんなことが語られて
います。


早野 (中略)
さきほども言いましたように、やっぱり放射線に
関しては「量」の問題を踏まえなくてはいけない。
放射線は健康に関して無害なわけではない。ただ、
デマとか間違った情報というのは、福島ではありえないような
高い線量のケースを引き合いに出していて、それをあたかも
福島で起こりうるかのように言ってるんです。それは、
2011年の早い段階では仕方がないケースもあったかもしれない。
ショッキングな警告としての役目はあったのかもしれない。それは、
ぼくは否定しません。
 だけれども、ここまでの時間が過ぎて、これだけのデータが出そろって、
線量の低さも非常に明確にわかってきた。この今の段階で、そういう
話をするのは、ありえないし、あってはならないと思う。
 
糸井 いま早野先生が示されたような、科学者としての誠実で
揺るぎない態度が、ますます必要になりますよね。
 
早野 うん、もどかしいんだけどね。でも、本当に、そう思う。


この「もどかしいんだけど」続ける態度ってのが、自分も含めて
多くの人に足りないもんなんでしょうね。それをやってのけたのが
この早野さんの凄いところなんですが。

今もなおFacebookなんかを立ちあげるととっくにデマだと分かっている
記事がシェアされてきたりして、うんざりすることもしばしばです。

ああ、もどかしい。


甲状腺ガン、見つければいいってもんじゃない


例えば、甲状腺ガンに関する記述。
私はこの記述で、自らの不勉強を思い知らされました。

 甲状腺ガンというのは非常に進行の遅いガンで、
ガンの中では危険度が低いんです。わかりやすくいうと、
ほぼ、命に別状がない。ですから、検査すれば甲状腺に
ガンが見つかるけれども、見つからないまま過ごして、
他の病気で亡くなる保持者の方がとても多いと言われて
いるんです。
 そういった状況を踏まえると、本来であれば知らずに
済んだ異常が、検査によって見つかってしまった子どもに
とって、甲状腺のガンを探すことになんのメリットがあるのか
という意見もあるんです。
 他のガンだったら「早く見つかってよかったね」って
なるんだけど。甲状腺ガンの場合、命に別状がないとはいえ、
ガンはガンだから、既往歴がガンだってことになる。
そうすると、たとえば、生命保険に入る際や、さまざまなところに
影響もあるんですよね。もちろん、診断された方の心理的な負担は
相当大きなものです。
 そういうことまで総合的に考えると、「全国の小学校で大々的に
検査すればいい」と簡単にはいえなくなってしまう。(p115)

こういうコトまで考えねばならないわけで、
甲状腺ガンのことを徹底調査しない政府は
何かを隠ぺいしようとしているのだ、という言説は、
まったくもって実態に即していないことがわかるでしょう。


科学的な態度、というのは、わかりやすい結論に飛びつかず、留保し、
検証し続けることにあるのだ、ということがしみじみと腑に落ちる、
いい本です。読みましょう。

2015/04/09

第67~71冊 脊椎動物五億年スケールの夢から育児論へ 『胎児の世界』~『赤ちゃんはいつ人間になるのか』


Amazon.co.jp: 胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691)): 三木 成夫: 本

二つの「ショック」、と『胎児の世界』


私が子供のころ。
母が流産をしたことがありました。


弟になるはずだった胎児の姿を、
私は直接見ることはありませんでしたが、
実際に見た父から、まだ人のカタチに
なっていなかった、という意味合いのことを
聞いた時には、何を言っているのかはいまひとつ
分からなかったですが、たいそうなショックを受けた
記憶があります。


当時の私は、赤ちゃんというのは、
人間の小さいのがどの時点からかよく
わからないけれどお腹の中に宿り、
そのままある程度大きくなったら出てくる、
というイメージだったからです。


その後、何かの本で、カンガルーの
赤ん坊の姿と、人間の胎児のある時点の
姿がよく似ていることを知り、さらにショックを
受けました。


「全然人間っぽくないぞ?」


と。

それからだいぶ後、タイトルに惹かれて
購入したのが『胎児の世界』。

私の二つのショックを掘り起こし、
生命現象そのものへの深い興味を
かき立ててくれた本です。

生物学? 哲学? 全部だ!


『胎児の世界』は、胎児が発達していく
過程で脊椎動物の進化の歴史を
繰り返していく、という話を軸に、
生命そのものに深く刻まれた進化の
記憶、というものの姿を語って見せます。


本書は、部分部分にご自身の緻密な
研究観察の成果がちりばめられつつも、
科学的に実証不可能なレベルの壮大な
思索を展開してみせている点で、
科学入門書というよりは哲学書や詩集、
エッセイ集に見えます。


著者の三木成夫さんという方は、
解剖学・発生学の研究者でありますが、
それらを貫いて響く「三木生命哲学」とでも
言うべきもののおかげで、とかく無味乾燥に
なりがちな解剖学・発生学がつながって、
輝いて見えてきます。


かの吉本隆明さんもこの著者のことを知って
たいそうショックを受けた、と『心とは何か』で
書いていました。

Amazon.co.jp: 心とは何か―心的現象論入門: 吉本 隆明: 本



でも、私がこの本を推すのは、そうした
筆致に垣間見える、三木成夫さんの、
知の探究者としての狂おしいほどの情熱……
手早く言ってしまえば「マッドサイエンティスト」の
発する「空気」ゆえです。

 いったい、生物はどうしてリズムを知るのか。たとえば、女性の排卵は月の公転と一致して、左右の卵巣から交互に一個ずつ体腔内に排卵されるが、 この暗黒の体腔のなかで、かれらはいかにして月齢を知るのか。その観測はいかにしてなされるのか。かれらは、たとえば、感覚器官の潜望鏡を体腔から外に突きだして、しげしげと月を眺めているのか。   
 この問題は、魚鳥が移動するとき、その時刻と方角をいかにしてキャッチするかという問いに集約される。羅針盤も 天体儀ももたないかれらが、時節到来とともに故郷と餌場の方向に正確に頭を向けて出発する。どのようなからくりがそこに隠されているのだろう? 
 とくに戦後の生物学はこの問題に真剣に取り組み、数多くのメカニズムを神経生理学的に解明してきた。しかし、その絶妙のメカニズムがわかれば わかるほど、ますます謎が深まっていくというのは、どういうことなのであろう?この問題の指針はただ一つ、それは、卵巣とは全体が一個の「生きた惑星」で はないか、ということだ。いや、この地球に生きるすべての細胞はみな天体ではないのか……(改行引用者)

何となく、言いたいことは伝わりますでしょうか。

科学と哲学が今よりずっと未分化であった19世紀の
趣があります。いや、バカにしているわけではなく。

科学が事象を細かく分けて分析していく緻密さ・精確さ
を増していくにつれて、なかなかこういう文学めいた
切り口で書かれた本にはお目にかかれません。



内臓とこころ (河出文庫): 三木 成夫


こちらは更に一歩。

人間のこころの発達に、内臓の状態がどう
関わっているか、ということを語った一冊。

排泄や空腹といったものを通じた
快不快というものがこころを育んでいくのだ、
という、生理学と心理学を結び付けようという試みで、
これがまた面白い。

講演記録をもとにしたものなので、『胎児の世界』とは
また違う三木節の面白さが際立ちます。


そして、マッドな弟子へ。


そして三木成夫さんの謦咳に接したひとりで
歯科医師の西原克成さんは、この三木さんの
「マッド」っぷりの継承者、かもしれません。


その西原克成さんが育児に関わる本を
書いています。

赤ちゃんはいつ「人間」になるのか―「育児常識」は危険だらけ: 西原 克成: 本


赤ちゃんを、

 「人類に至る進化の歴史のまだ途上に
 ある生物として見る」

という視点にはちょっと驚かされますが、
例えば、赤ちゃんは、口で乳を飲みながら呼吸をできるが、
大人はこのようなことはできない、という話が出てきます。

実はあらゆる哺乳動物の中で、ミルクにむせかえったり、
あるいは食物が喉に詰まって窒息するというのは人間、
それも成長した人間だけに特有のことなのです。実際、
イヌやネコは赤ちゃん同様に息継ぎせずに餌を食べ続ける
ことができます。赤ちゃんの喉の仕組みは、実は、このイヌや
ネコ、サルなどという動物の喉と、あまり変わることがありません。
つまり、赤ちゃんの喉は、まさに「人間以前」であるわけです。(p22)

といった話を皮切りに、子どもの鼻呼吸をシッカリ体得させる
ことが、子どものその後の人生での健康を維持増進するために
いかに重要か、そのためにはどうすべきか、という論展開に
つながっていきます。

この話のスケールの広がり、さすがと言うべきでしょうが、
この本は西原本の中ではかなりおとなしい部類に属するもので、
例えば、

「心肺同時移植を受けた患者は、すっかりドナーの
性格に入れ替わってしまう」

……という事例を引き、内臓こそが心の本体(?)で
あるとした本がこちらです。



内臓が生みだす心 (NHKブックス): 西原 克成: 本


……で、内臓とこころの相関関係という、師匠から
受け継いだテーマそのものもなかなか面白いのですが、
この本の中に、重力対応進化論という、重力との相関関係によって
生物が進化してきたのだ、というかなり面白い説が出て来ます。


 生物は重力が進化させた―実験で検証された新しい進化の法則 (ブルーバックス): 西原 克成: 本
 
こちらの本では、その重力進化論を実証するためにサメを地上に
引き揚げてむりやり肺呼吸に切り替えさせる
ような実験をしたり……みたいな話もあり、その筆の
オーバーヒート気味な感じがまた、科学書としての価値を
危うくしながらも(笑)、未知の世界へ独自理論で切り込んでいく
気持ちよさのようなものを感じさせ、何とも言えぬ魅力を
醸し出すのです。


師弟ともに、その論じるところは、現在の厳密な科学的検証に
耐える理論か……という点に関しては、ちょっと留保の必要ありかとは
思いますが、その危ういラインというのは、ある意味でまだ珍説奇説が
舞い踊ることのできるフロンティアでもあるわけで、そういうのが
好きな方には、ぜひご一読をお勧めいたします。

2015/03/27

第64~66冊 自分の「からだ」と出会う、「よくわからない」方法 『「からだ」と「ことば」のレッスン』『ことばが劈(ひら)かれるとき』『竹内レッスン』

今日ご紹介する三冊の著者である竹内敏晴さんという方は、
職業で言えば「演出家」、ということになるのでしょうが、
本を読んで感じるのは、そんな枠組みにおさまらない、
「からだ」と「ことば」の探究者であるということです。

これほど「からだ」とか「ことば」といったものについて
深く考えている人は、マッサージ師などの手技療法家にも
なかなかいないのではないか、と(自戒をこめつつ)感じます。

人と人とが分かりあうとは、どういうことか。
ことばとからだの関わりとは、どういうものだろうか。

……という、ものすごく根源的な問いに対して
向き合って書かれた本たちでは、ことばやからだという
ものが意識されていくことで、人がどう変わっていくか、
ということまで踏み込んで描かれています。

「話しかけ」のレッスン


「からだ」と「ことば」のレッスン (講談社現代新書): 竹内 敏晴


自分のことばが、相手にちゃんと届いているか、
なんてことを意識したこと、ありますか?


単純に声が大きい小さいとは関係なく、ある時は
ことばは相手に届かず、落ちる。またある時は、
相手を通り過ぎる。その人、ではなくて、そのあたりの
人々、に届いてしまうこともある。


そんなことを体験してみる「話しかけ」のレッスンの
ことを知ったのは、10年近く前、『「からだ」と「ことば」のレッスン』
を読んで、でした。


人間対人間のやりとりとしての「ことば」や、それを発する
「からだ」を掘り下げていく「レッスン」の数々は、あまりにも
抽象的で、演劇のレッスン、というもののイメージを覆すものでした。

聞きわけているうちに、声とは、単に空気の疎密波という観念によって表象されるような、抵抗感のないものではないことが実感されてくる。肩にさわった、とか、バシっとぶつかった、とか、近づいてきたけどカーブして逸れていった、というような言い方で表現するほか仕方のないような感じ――即ち、からだへの触れ方を、声はするのである。(『「からだ」と「ことば」のレッスン』p27)

何のこっちゃい、と思われる方も多いかと思いますが、
同じレッスンをしなくとも、例えば、目の前にいる人の話し方を
苦痛に感じるか、心地よく感じるか、それはどこに感じるか、
といったことを注意するだけでも、だんだんと面白さと奥深さが
わかってきます。

苦闘の歴史


ことばが劈(ひら)かれるとき 竹内 敏晴


 普通に暮らしていたら気にならなそうなそんなテーマに
なぜ著者はそこまでこだわるのか。そこには、慢性中耳炎
急性発作症なる病のために言葉が聞こえなかった著者が、
徐々に聴力を回復するとともに「ことば」を取り戻していった、
という経緯が絡んでいるようです。

そうした経緯や竹内レッスンと呼ばれることになる
不思議なレッスンの誕生や展開を自伝風にまとめた
『ことばが劈(ひら)かれるとき』には、自らのレッスンについて
こう記しています。

演技とは、芝居をうまくやるための技術、ととるのが
通常の理解だろうが、そのような配慮はまったく
私の頭から消えていた。「レッスンによって人間の
何が変わりうるか、どのような可能性が劈かれるか」、
ひいては「人間にとって演技レッスンとは何か」、これしか
私の関心はなかった。(『ことばが劈(ひら)かれるとき』p123)

彼にとって、演技のレッスンとは、自分という「からだ」で、
人間としてどう生きるか、という前提の前提にまで立ちもどるような、
きわめて根源的な問いかけだったのでしょう。


わかる、ってどういうこと?


竹内レッスン―ライヴ・アット大阪: 竹内 敏晴

からだの「実感」をベースにして人間や人間同士の
関係性というものをひもといていく探求は、例えば
以下のような話からも分かるとおり、理屈、頭だけ
使ったような理屈とはまた別の世界を、我々に
垣間見せてくれます。

「ああ、これが俺の本当に言いたいことだったんだ」というのは、実は声に発して、相手が受け取ってくれたとき、初めてわかるわけです。自分のほうで、言いたいことを一所懸命に言えば、それは本当にその人が言いたかったことかというと、必ずしもそうじゃない。「これで本当に自分の言いたいことが成立った」と思う瞬間がある。それは結果から言えば、自分も気がつかなかったような、意識の底というか深みから、浮かび上がってくることばだろうと思います。(『竹内レッスン』p48)

この本に記されている参加者たちの座談会では、何に役に立つ、
とか、これがわかった、と簡単に言語化できない「何か」に触れるために
レッスンを続けていることがじわじわと伝わってきて、自らの意識の底の深みと
対面する時間や空間への渇望を感じさせてくれます。


竹内敏晴さんの本は、これ以外も面白いのですが、
とにかくこの面白さ、自分のからだのことすらよくわかっていなかった、
ということが浮き彫りにされてくるこの感じは、ぜひ体感していただきたいと
思います。


この方の本を読むと、なんとも不思議な安らぎを感じるんです。
チョット怪しいですけど。

2015/03/17

第63冊 本当の原理主義とはこういうことさ 『イスラーム 生と死と聖戦』

イスラーム 生と死と聖戦 (集英社新書): 中田 考: 本


原理主義より原理的


イスラーム研究者にして本人もムスリムという
日本では稀有な存在の著者による、イスラーム思想の
入門書。

いや、わかりやすいけど入門書と呼んでいいのかどうか……
この点は後述します。

北大生をISへ紹介したかどで物議をかもした著者だけど、
この本を読むと、その考え方のスケールに畏れ入ります。

イスラーム思想をつきつめて考えるとこういう世界観に
なる、という考え方を紹介しているが、その過程で、
色々と目からウロコの話が続きます。例えば……

イスラームの話をすると、必ずと言っていいほど
「イスラームにはタブーが多くてたいへんそう」という
感想を聞きます。そこにはふたつの誤解が含まれています。
まずタブーと言う概念自体がイスラムにはないこと、
もうひとつは、イスラームはかなり自由度が高いもので
慣れてしまえば楽なことです。(p52)

「えっ?」と思いませんでしたか?
詳しくは読んでいただきたいですが、これだけでなく、
目からウロコの落ちまくる内容です。

・イスラームは、実は他の宗教にかなり寛容
・イスラームはアニミズム 
・イスラーム原理主義者と言われる連中も、実は
 イスラーム思想の根本に則っていない
・政教分離では実はあんまりいいこと起きていない
・イスラームは本来、国家というものを必要としない

私は本書で、自分がイスラーム思想がまったく
分かっていなかったことがよぉーく分かりました。


いや、中田さんに言わせると、ムスリム当人たちですら
イスラーム思想がいまひとつ分かっていない、という
ことになるのですが。



入門書の皮をかぶった、変革の書




この本の凄みは、

「世界中がイスラーム法が施行される空間になれば、
宗教や生活上の習慣の多様性は確保したままに
国家は不要になり、人間はより自由になれる」

という、ある意味イスラーム国が可愛く思えるくらいにアナーキーな
世界観を、「論理的に」提出してみせていることです。


イスラーム思想を敷衍していくと、現在世界を覆う問題に
対して、我々が前提と思っている世界観そのものを揺るがすような
(「国家」そのものが不要なのでは?など)解決法に至るという、
その論の展開は圧巻です。


また、現在世界を騒がせているイスラーム国、ISを、
イスラーム思想そのものを突き詰めた論理から批判するという、
ちょっと余人にはマネのできない知的アクロバットを見せてくれます。


日本国内では、イスラーム国を「国」と認めること自体が彼らの
思うツボだ、という論調が主流ですが、中田さんの論によれば、
彼らが「国」を志向すること自体が、イスラーム思想としてツメが
甘い、ということになります。


イスラームに興味のある人はもちろんのこと、興味のなかった人も、
我々の住んでいる世界・社会を相対化して考えることのできる、
頭のストレッチになって楽しいと思います。ぜひご一読を。

第62冊 霊界との清く正しいお付き合い 『いかにして高次の世界を認識するか』

 
いかにして高次の世界を認識するか
ルドルフ シュタイナー, 松浦 賢


私がメシのタネにしている代替医療の
業界というのは、面白い人の巣窟で、
霊が見える、オーラが見える、悪い所が
黒く見える、みたいな話は枚挙にいとまが
ありません。

私自身は、今のところ、そういうのは
まったく見えません。

見えたら仕事上便利だろうなぁ、とは
思うのですが、話のタネとしてオカルトは
好きなのに、仕事上役立つような特殊知覚は
発現しておりません。

で、この本も、何かの間違いでそういう世界が
見えると、便利だろうなあ、という下心で手に
とりました。

で、本を読んで叱られた気分になるという、
素敵な体験をしました。

珍しく読みやすいシュタイナー


没後90年経ってなお、ルドルフ・シュタイナーの
思想はおもに教育哲学の世界とオカルトの世界に
またがって、強い影響力を持ち続けています。

が、その著作は、人智学といわれる独自の
思想体系に裏打ちされていることもあり、
ナカナカにハードルの高い、読みにくいものが
多いのですが、この本は、そんなシュタイナーの
本としては格別に読みやすいです。

そして、タイトルからすると、霊視能力の
開発ノウハウが学べる本、という印象ですが、
さすがはシュタイナー、手っ取り早くオーラを
見たいとか、手っ取り早くヒーリング能力を
身につけたい、みたいな俗流(?)スピリチュアル本とは
格が違うのです。

……というところを、今回は取り上げたいと思います。

ちゃんとした人になりなさい!



まず最初の「条件」として、以下のようなことが語られます。

周囲の世界や自分自身の体験のいたるところに、崇拝や尊敬の感情を呼び起こすものを探さなくてはなりません。たとえば私がある人に会った時に、その人の欠点を批判的に見ると、私のなかから高次の認識能力が奪われます。(p11) 
世界や人生に対する感嘆や尊敬や崇拝の感情で満たしてくれるような思考のみを意識に上らせるようにすると、私たちは早く向上することができます。(p12)

この「良いこと探し」「人や世界をリスペクト」ですが、私もやる前は
正直ちょっとバカにしてましたが、実際にやってみると、驚くほど
メンタルの問題が落ち着きます。

逆に言えば、Facebookで友達の幸せに嫉妬するような
精神状態で霊能力なんて身につけてもロクなことはないってことです(笑)。

内面の平静の時間を生み出しなさい。そしてこのような時間に、重要な事柄と重要でない事柄を区別する事を学びなさい。(p20)  
学徒は、みずからの喜びや悲しみや心配事や、経験や行為を、自分自身の魂の前によぎらせます。そして、このとき、ふだん体験しているあらゆる事柄をより高い観点から眺めるようにします。(p21)
自分で決めたとおりに外界の印象の作用を受け取る能力をみずからのうちに育てなくてはなりません。(p28)

外界の瑣末なことに振り回されない自分を、まず、つくりあげる。

あの売れに売れたビジネス思想(?)書『7つの習慣』風に言えば、
「重要事項に着手せよ」「刺激と反応の間を広げよ」ってやつですね。

説教くさいなぁと思う方もあるかもしれませんが、
マスコミに登場する自称霊能者の胡散臭さを思えば、
「高次の世界」を認識する前に、その認識にふさわしい人格を
身につけよ、というのは至極まっとうな考えだと思います。

いや、そこまでいかなくても、自分には他のヤツがわからないことが
わかり、見えないものが見えている、という自信に溢れたヤツが、
どれくらいイヤなヤツかを想像するだけでも十分でしょう(笑)。

霊の世界がどうこう言う前に、ちゃんと働け


面白いのは、高次の世界を認識するための訓練にただ
没頭するような生き方はむしろ推奨せず、

数分間訓練を行ったら、私たちはそれをやめて、
おだやかな気分で日常的な仕事にとりかかるように
します。訓練に関わる思考を、私たちの日常的な仕事のなかに
いっさい紛れ込ませてはなりません(p54)
どのような仕事にも、私たちが人類全体のために奉仕する可能性が
含まれています。「私にとって、この仕事はひどすぎる。私は別の
仕事に向いているはずだ」と考えるよりも、「このささやかな仕事を
(あるいはいとわしいと思われるような仕事を)人類全体はどれほど
必要としているか」ということを認識する方が、私たちの魂は、
はるかによい影響を受けます。(p118)

と、日常的な仕事をシッカリこなすことが重要と考えている点。

まあ、日々、

「ハイヤーセルフが」
「次元上昇が」

なんてことばかり言っている人になるよりは、
日々淡々と働き、でもそういう世界も実は
コッソリ分かるんです、という人になったほうが
カッコイイよな、とは私も感覚的に思います。

が、アカシックレコードを認識できてこの世のこれまで
起きたことが霊視出来るんだ.、というルドルフ・シュタイナーが、
訓練は生活に支障をきたさない程度にね!と何度も念を
押しているのは、チョット面白いところです。

で、だんだんこの時点で、「見えたら便利だよねー」
みたいな気分の私は、どうやら叱られている気分に
なってきました(笑)。

で、結局超能力は?

物質的・感覚的な世界における机や椅子と同じように
感情や思考は現実的な事実である、ということを
完全に理解するとき、私たちは高次の世界に
おいて自分の位置を確認することができるようになります。(p42)
……とあるように、本書で強調されているのは、感情や
思考をコントロール下におくことです。

そのために、瞑想や周囲の風景、音、物などへ意識を
集中、没入させることで、「高次の世界」を認識していくという
具体的な方法は色々と本書の中で紹介されています。


とはいえ、基本的には忍耐が要る、ということが繰り返し述べられ、

しばらくの間は、静かに自己の内面に留まっている
状態を保ちなさい。『いつか私がふさわしい段階まで成熟したら、
生じるべきものが生じるだろう』という思考を自分のなかに深く
刻み込んだら、慣れ親しんだ日常の仕事に取り組みなさい。
そして高次の力のなかから、何かを好き勝手に自分のほうに引き寄せ
ようとする態度を厳しく戒めなさい(p107)

と、「超能力で色々いいことづくめヒャッハ―みたいなことは思うなよ」、
と戒められております(笑)。

まあ、現世で無敵になる裏コマンドとかは、無いってことです。


ごめんなさい、シュタイナー先生。


以下余談。

おそらく唱えているシュタイナー自身もこの本で書かれているような態度を
完全に貫いた、ってことは多分できていなくて、理想というか、努力目標とか、
そういった類のものだったのだとは、思います。

シュタイナーがアカシックレコードが●●できるとかいう話は、シュタイナー
自身がこの本で語っている戒めを踏み越えているように思えますし……。

逆に言うと、それだけ「あっちの世界」の魅力は強すぎるということかもしれません。

2015/03/03

第61冊 動けなくてハズカシイ高校生たちの超・密室青春群像劇 『ガレキノシタ』山下貴光

帯に曰く「極限型青春小説」。


何故か手にとってしまい、何故か買ってしまい、
何故かあっという間に読破してしまいました。


どうまかり間違っても、普段だと「青春小説」
なんて銘打たれたものに手をつけることは
ないのですが、最後に付いている大森望さんの
解説を読んだら、何とも面白そうだったんです。


おのれ大森望。


いや、罠にはまって良かった、ですよ。


ガレキノシタ (実業之日本社文庫): 山下 貴光

登場人物がガレキに埋もれてほとんど身動きできない
中で物語が進行するという「超・密室劇」。


そんな「不自由」な舞台設定なのですが、そこはさすが、
『屋上ミサイル』で「このミステリーがすごい!」
を受賞した作者だけあって、仕掛けが満載。


語り手を変えての全七話の短編を通して、
あっちの謎がこっちで解けたり、この人の
大切な人の安否があの人の話の中で
分かったり、といったあたりの仕掛けのおかげで、
あれよあれよと言う間に読めてしまうのです。


とある高校生の回想の中で、その友人が

 「人類の平和のためには共通の敵が
 いればいいのではないか」

という理屈を展開するのですが、本作
そのものをメタ視したような発言だなぁ、と。


本作での「共通の敵」は、もちろん、校舎の倒壊
とそのガレキの下への生き埋めという緊急事態です。


身動きもできない極限状態だからこそ
登場人物たちが素直になれたり強くなれたり
悪くなれたり、という色々があるわけで。


だからね、はっきり言ってしまえば、ガレキは
「言い訳」なのでしょう。


「極限状態だから、これくらい恥ずかしい
ド直球な青春小説になってしまっても……
いいよね!? いいよね!?」


……という。


思い返せば、2011年3月11日の大震災の後しばらく、
私自身、「震災後ハイ」みたいな状態がありました。


当時の自分のメールやツイートを見るとずいぶんと
気恥ずかしいメッセージを家族や友人に対して
送っていたことに気付き、なんともくすぐったい気持に
なったものです。


ちょっと斜に構えた本を読んでばかり来ましたが、
まあ、たまにはこういうドドド直球もありかな、と
思いました思わされてしまいました。


まあ、敢えて難癖つけるならば彼らの青春は
おおむねサワヤカ過ぎるのが鼻につく(笑)。


私の高校時代なんて『ドグラ・マグラ』読んで
ブウウゥウウーンとか言いながら、延々
モヤモヤ暮らしてましたからねぇ。
男子校で男ばっかりだったし。


あ、まったく余談ながら、表紙は女の子がセーラー服で
ヘソ出してますが、本文中のYシャツ云々の描写から
すると、こーゆー制服ではないのではないか、などと
どうでもいいところが気になりましたが、
まあ、枝葉末節です。


人に伝えたいことは、まあ、恥じらいながらも
ちゃんと伝えておいたほうがいいですわな。

2015/02/13

第59冊&第60冊+α 精神医学の重鎮が紡ぐ、自らの必殺技とその訓練法の歴史   『精神科養生のコツ』&『技を育む』

資質の凸凹という制約のせいでいろいろな分野を諦めて 、
狭い一筋の道に縋って生きてきました。個々の技の良否や真偽はともかく、
これしかできない宿命や運命を、「これをやろう」と思い定め、専ら内なる促しに
従って歩むと、嫉妬や羨望に苦しむことが少なく、納得と安らぎの終末を迎える
ことができるようです。そうした一個の人生を例示できた歓びがあります。  
(中略)
ボクは資質の凸凹、人としての未熟さ、そしてなにより技の未熟のせいで、 幼児期いらい今日まで、多くの方々に負担と害を及ぼしてきました。おそらく残された人生も同じような歩みとなりましょう。謝罪を籠めて、本書を捧げます。(『技を育む』あとがきより)

技術について、人生について、人間関係について、様々な示唆を含んだ
美しい結晶のようなあとがき。

私は「あとがき」から本を読んでしまうことが多い人間なのですが、
この「あとがき」は、数あるあとがきの中でも、かなり「響き」ました。
これで著者のファンになることが確定したような感じでした。


まずご紹介するのは、ベテラン精神科医が、精神科がらみの疾患を
抱えた人に勧める養生法を紹介した
『精神科養生のコツ』。


主に患者さんが自分でできるように、と養生法を紹介した本ですが、

「ええっ、精神科の先生が、こんな代替医療系の
方法や、ものによっては半分オカルトみたいな
方法を勧めていて、大丈夫なのかしら」

……と驚く内容。

自分での整体は序の口。

Oリングテスト等の筋力テストにより
モノやコトの身体への無害有害をチェック。

気功を使ってイメージで身体を整える。

さらには、既存の代替療法の併用も示唆。

精神医学的に、それってアリなの……?と思いますが、、
斯界で先生の元に勉強しに来る精神科医がひきもきらず、で、
事実、良い結果を叩き出し続けているようなのです。

何でそんな方法に行きついたのか、というところの
根幹の考え方は、以下のような文にもあらわれています。

精神科治療学が医学の他の分野に遅れているのは、
動物実験で代用できる部分が少ないせいです。精神の病は、
動物であるヒト種の病ではない、人間の病だからです。
その理由は、わたしたちはヒトではなく、内側に文化を組みこんでいる
人間というありようであり、そのありようを脱することはできない
からなのです。
いま必要なのは、他の生物と同じようにもっている、原始生命体としての
機能を呼び戻し、それと、進化が生み出した人間というありようとの和解を図る
ことです。昨今、哲学の分野からその作業が進められているようです。
わたくしは病と養生の現場で同じ作業を試みているのでしょう。(まえがきより。
傍線引用者)

   
改訂 精神科養生のコツ: 神田橋 條治


つまり、「文化」にまみれてしまった人間に、生命体としての
力を呼び戻すことで対処したり、カウンターで別の「文化」を
ぶつけることで変化を与える……といった方法論なのだと
私は理解しました。


このへん、中井久夫先生の『治療文化論』なんかと
読み比べるとまた面白いものです。



治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫): 中井 久夫


こちらの本は、精神異常を論じるにあたって、


「そもそも健常者なるものの存在を疑う」

という視点で、精神疾患とか精神の異常って
そもそも何だろう、と考えさせてくれるので、
狂気とか異常心理とかいうキーワードで
ときめいてしまう御仁にはオススメです。


神田橋先生の本の話に戻ります。

で、二冊目。

手さぐりで進むしかない精神疾患に対して、
周りからどう思われようとも、効きそうなものは端から試し、
オカルティックな治療や養生法に行きつく……

じゃあ、どうやってそんな技術を検証し、磨いたのか、
ということを神田橋先生が、自分史として書いたのが
この本、本記事冒頭にあとがきを引用した『技を育む』。



技を育む (精神医学の知と技): 神田橋 條治


精神科医として、言葉に力を持たせるために発声練習をしたり、
相手の身になって考えるためにイメージで相手に「憑依」したり、
全身をセンサー化するためにOリングテストから独自の方法論を
編み出したり、経絡理論に基づいた身体の操作を、自分なりに
検証したり……。


一世一代の「技芸」として、技術が磨かれ、
洗練されていくさまは、迷い、ためらいの連続ではありますが、
そうして繋がっていった連鎖は、驚くほど論理的に見えたりも
します。


例えばエリクソン派の催眠(昨今流行りのNLPの源流ですね)に
通じそうな非言語的なコミュニケーションやイメージ操作技法をどうやって
模索する際に、じゃあ、具体的なイメージのネタはどこから持ってくるか、
とか。


科学的検証に耐えるような類の「論理」ではないにしても。
精神疾患という無灯の世界に、ナントカ自分なりの灯りを
ともしていくために様々な概念や方法を試し、捨て、再利用し、
改善し……ということを考え続けている姿は、オカルト治療法、
と一笑に付すにはもったいない深みを感じます。


このへん、自分の頭で考え身体で試し、自らの「技」を高めていく
ことを述べている、『零戦の秘術』にも通じるかもしれません。

 参考 →第52冊+α 撃墜王vs.航空技術者 技術論なのに生きざまを問うてくる 『零戦の秘術』


こういう切り口、生き方もありか、と読むだけで不思議と元気になる
二冊であります。精神医学にオタク的な興味をお持ちの方も、
一読の価値ありではないかと思います。

2015/02/10

第58冊 読むたびに仕掛けに気付く、ネタ&メタづくし小説 『屍者の帝国』


 「あんたは、生命とはなんだと思う」 
笑い飛ばされるかと思ったが、振り返ったバーナビーは不思議そうな顔で淡々と告げた。 
 性交渉によって感染する致死性の病」

屍者の帝国 (河出文庫): 伊藤 計劃, 円城 塔


メタづくしの帝国


いまここにある命をこじらせている、わたしやあなたに
おすすめの一作です。


死体にネクロウェアというプログラムを書き込んで
「屍者」として労働させる技術が発達した、架空の
19世紀の世界を舞台にした物語。


夭逝した伊藤計劃(わたしのブログ筆名の元ネタですね)の
遺したプロローグとA4ペラ一枚のプロットを元に、同時期に
ハヤカワでデビューした円城塔が完成させる……という、
亡くなってしまった作家と、存命の作家のコラボという点が
この作品のテーマとも響き合い、メタ的に読めて、ああ、
あざといな、と(いや、褒めてるんですよ)。


『ドラキュラ』に『フランケンシュタインの怪物』、
『カラマーゾフの兄弟』に『風とともに去りぬ』、『未来のイヴ』、
等等……の作品を読んでいるとなお楽しめる色々な小ネタが
満載なので文学オタにはたまらないものがありますし、
『007』シリーズへのオマージュなどもあります。


19世紀の世界情勢や医学史などをぼんやりとでも知っていると
なお楽しい仕掛けが満載です。


エピローグで、主人公のその後がどうなるか、
というあたりでは、やっぱりとニヤリ。


また、情報科学の歴史をちらりとでも知っていると、
バベッジマシーンが海底ケーブル等を用いて相互に
ネットワーク化されているスチームパンクな世界観も
また愉し、です。きっと、この世界ではニコラ・テスラの
提唱する全世界システムは実現されるのでは、などと
妄想が止まらなくなります。


まぁ、悪く言えば衒学的で中二病的とも言えますが、
仕方ないじゃん、そういうの好きなんだから(笑)。


肉体で考える、という「別の解」




個人的に注目したいのは、作品中では悩める主人公の相棒、
コミックリリーフで肉弾戦担当の英国軍人バーナビー。


主人公には粗野で思慮に欠けることをさんざん揶揄されていますが、
本記事の冒頭、主人公との問答でもわかるとおり、なかなかどうして、
頭の回転の早い人物です。論理的積み重ねよりは直観で答えを
ブチ抜く類の頭の良さですが。


人造人間やら屍者やらがひしめく中で、生身の人間であるはずの
彼の方が超人に見える、ってのが凄い。主人公一行の中では唯一
「実在する人間」をモデルにしているはずなのに。


第一部で、主人公たちがアフガニスタンの中で目的地にたどり着くのは、
結局、バーナビーの直観&棒倒しのおかげですし(笑)。


頭でアレコレ悩む主人公に対して、「身体で考える/動く」バーナビーの
存在があることは、主人公たちの旅を救っています。


また、彼の行動様式そのものが、最後に主人公が為す重大な選択に
対してのアンチテーゼ
にもなっているように思えます。


私自身は、意識なるものは身体性と切り離すことは
困難だと思っておりまして、「身体で考える/動く」
バーナビーは、主人公がたどりついた意識や魂に
ついての思索とは別の結論を提示している
存在に見えるのです。


……とまぁ、そんな風に色々に読める仕掛けが
満載の小説です。


本棚に置いておいて、損はないと思います。


今年アニメ映画になるそうです。なまじ好きなだけに、
期待と心配が入り混じりますけれどね。





余談。

本作の「元ネタ」としても重要な『フランケンシュタイン』と
『ドラキュラ』は極めて近しい人たちが書いた物語で、
フランケンシュタインの作者メアリ・シェリーと、ドラキュラの
実際の作者ポリドリは、スイスのレマン湖のほとりで、
詩人バイロン卿の提案でそれぞれの作品を書き上げた、
と言われています。

参考:ドラキュラとフランケンシュタインhttp://flash.dojin.com/ssplanning/byron/d_f.html

リンク先にもある通り、このバイロン卿の娘エイダが、
コンピュータの元祖とも言われて情報科学の歴史の
最初の方に登場する「バベッジマシーン」の開発に協力して、
「世界初のプログラマー」と讃えられていて、こんな狭い
交遊範囲の中がネタの宝庫ってのはすごいもので、
作家ならぬ我が身でも、何か小説の一本でも書きたくなります。

2015/02/09

第56冊&第57冊 毀誉褒貶の激しい怪エンタメ作 『ジェノサイド』


 ジェノサイド 上 / 高野 和明
 ジェノサイド 下 / 高野 和明


アフリカの奥地に誕生した、人類を滅ぼす可能性のある、
まったく新種の生命体の正体や、いかに。


SFでミステリーで、息子のために戦うおっさんや、
パッとしない感じの大学院生が、運命に翻弄される
うちにカッコよく見えてくる、ハリウッドのアクション映画っぽい
展開にミステリー要素や生命科学系のネタを叩きこんだ、
贅沢なエンタメ作品です。


この作品、レビューの毀誉褒貶の割れ方も見ものだったりします。
というか、ミステリーの仕掛けに踏み込むのも野暮なので、
今日はその毀誉褒貶のほうにしか触れません(笑)。


タイトルから推察されるように、虐殺に至ってしまう
人間の残虐性、みたいなことが作品の中でも重要な主題に
なっておるのですが、まあ、それに関して、小説内の「語り手」が
唐突に語る政治的主張が鼻につく、といった批判がとにかく
多いのです。


単純に内容がつまらなかった、という批判は少数派ってところが
面白いところで、おそらくなまじエンタメ作品として面白いのが、
可愛さ余って憎さ百倍というか、なぜそれなりに美味しい料理なのに
妙な調味料を横からブチ込んだんだ、興ざめしたじゃねーか!

という怒りなんですよね。


単純に面白くないと切って捨てられる小説は数あれど、
「余計な部分さえなければ」とこれだけ叩かれる「面白い小説」
ってのもちょっと珍しいと思います。


文庫化に際して、その気になれば叩かれるポイントを削る or 変更
することもできた筈なのに、そうしていない、というのも凄いです。


いっそのこと、『高い城の男』のように、実はこの世界では
○○大虐殺は本当にあった、という異世界なのだと思えば
いいのではないでしょうか。


余談
まあ、disり&虐殺つながりで、よろしければ、こちらも読んでやってください。

参考:第2&3冊 disる言葉が、今日もどこかで増えてます
    『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃



2015/02/03

第55冊+α 仏教のエッセンスはとことん論理的 『知的唯仏論』

知的唯仏論

知的唯仏論 宮崎哲弥 呉智英



「恩人」の本をひさびさに読む


私が高校生の頃、とある大思想家の本を読んで、
どうにもいまひとつ分からず、モヤモヤしていたことが
ありました。


そのモヤモヤをどえらくわかりやすく、スッキリと解説されて
いるのを読んで以来、呉智英さんのことは勝手に「恩人」として
認識してきましたが、ひさびさに読む、「恩人」の本です。


宮崎哲弥さんも、いっけん難しいことを解説する際の
切れ味が抜群でけっこう好きな評論家だったんですが、
その「師弟」が揃い踏みとは。


……ということで、気になっていた本です。
まいりましょう。


ガラケーならぬ、ガラブツ? 日本仏教の独自路線

まずこの本は、マンガや小説、伝統行事などを通して
日本人に根付いている「通俗的」な仏教観を
話のマクラにしつつ、仏教のエッセンスをじわじわと
抽出してみせます。


例えば、手塚治虫の『ブッダ』での輪廻転生の扱い方に
触れながら、原始仏教では、実は輪廻転生はそんなに
重視されていなかったのではないかなんていう話も
出てきて、目からウロコであります。


ピュアな原始仏教の教えは論理的に美しいくらいに
シンプルな、とってもアタマのいい教え
なのに、
その他の当時の民間信仰や、後代の人が足した色んなことが
ごたまぜに乗ってくる(日本仏教の、肉食帯妻OKルールも
そうですね)ので分かりづらかいのだ、ということが、次第次第に
見えてきます。


釈迦如来を本尊とする宗派は、禅宗以外にはあまりなくて、
日本の仏教は 釈迦より仏を上に置いている、とか、
花祭と釈迦の聖誕祭が習合したのは江戸末期、とか、
日本の仏教のガラパゴス的な進化についても、
原始仏教のエッセンスとの比較から、イメージを
大まかに把握できます。



わかったら負けだと思う宗教の「ポテンシャル」



もっとも、以前このブログでふれたように、

<仏教が「わかった」って思ったら、それは間違いなのだ>

 という論理的な仕掛けが仏教には施されていますので、
あくまでも、「暫定的な理解」だと思った方がいいかもしれません。

→参考:第40冊 仏教、何となくわかってるつもりの人に
     『仏教教理問答 連続対談 今、語るべき仏教』


 本書でも、
 そもそも理性によって捉えられ、見出した真理なんて暫定的なものでしかない。
 ……と表現されています。
面白いのは、宮崎哲弥さんが、リベラリズムの行き過ぎな台頭に危機感を抱き、

独我論的な思考への傾きはこの二十年ほどのあいだに、社会全体を覆いつつあり、もはや不可避なのではないかと思えます。

社会全体の「独我論化」を進めているのは先進成熟国において無敵の
公共哲学に成り上がりつつあるリベラリズム、とくに個人の自律と自己決定に重きを置き、「人それぞれ」を揚言する
主意主義的リベラリズムにほかならないということです。

その主意主義的リベラリズムを正面から批判しているのが、一昨年大ブームを巻き起こしたマイケル・サンデルのコミュニタリアニズムというわけです。(p223、宮崎)
負傷者の「助けて欲しい」という意志を確認できない限り、
見殺しにするのが「政治的に正しい」、「ポリティカル・コレクトな」
対応となりますから。

いまの話はいかにも極論にみえるかもしれませんが、実はそうでもない。
周知のように、尊厳死や脳死の議論の延長上で、「死の自己決定権」や
「自死権」が取り沙汰されています。リベラリズムの信奉者の大半が
これらを個人の自律権の範疇にあると是認するでしょうから、悪い冗談でも何でもなく、アクチュアルな課題です。(p228 宮崎)


とまで言います。
じゃあ、自由意思について、仏教はどう考えてるの?ということになると、

仏教は、完全に自由な意思などというものは端っから認めません。
すべての行為(ここでは意思も含む)は縁(条件)によって発生し、
縁(条件)によって消滅します。すべての縁から解放されるのは
悟りの境地に達したときだけです。世間(世俗世界)において、
万物の生滅は仮言的で、条件付きなのです。(p230 宮崎)

……と、小気味よく切って捨てます。

仏教は「この私」を救えるのか


以前ご紹介した通り、実は人の意思決定なんてものは、
大部分が無意識によって左右されてしまうのだ、なんていうことが
最新の脳神経科学、認知科学の成果として出て来てしまっています。

→参考:第48~51冊 目指すなら、「意識高い系」より「無意識高い系」。
     下條信輔祭り 『サブリミナル・マインド』他

個々人の意志をとにかく尊重すべし、というリベラリズムが
行き過ぎるのは、確かに危険に思えてきます。


本書では、リベラリズム≒独我論の偏重とセカイ系コンテンツの
相関関係などにも触れつつ、じゃあ、教祖が生まれてすぐ「唯我独尊」って
言っちゃった(笑)仏教って、何が救えるの?……というところにまで
切り込みます。

社会がどうあろうが、たとえば完全無欠の理想社会が
訪れようが、そこでも解消できない「この私」の苦しみこそが
仏教本来の救済対象なのです。(p232 宮崎)
やはり宗教たるもの、社会体制や普通の倫理で救えない部分まで
受け持ってほしいものです。

今はやりのピケティのパクリで言えば、

 religion > government

……ってことで。ええ、無理矢理 r > g にしましたとも。

独我論的な思考を内側から破る方途を提供できる、
たぶん唯一の実践哲学なのに、誰もそこに注目しない。
『この比類なき私』から『縁起する無我』で出る仏教だからこそ
可能な「救済」ですのに。
(p240 宮崎)

これ、すごいエッセンスだと思うんです。

独我論ってのは、突き詰めると、


「(その人にとっては、その人にとっての世界が全てなんだから)
人それぞれ、何したっていいよね」

になるわけですが、仏教の縁起の思想は、

「全ては関係性から成り立っていて、あらかじめ存在するものとか、
そもそもの意味なんてものはない。ただ、それを意味づけることはできる」


……ということになります。

自分の認識している世界がすべて=自分が正解だ、とするのと、自分が
意味付けできる、ということは一見、似ている。似ているけれど、結構な差がある。

この、似ているけど違う部分が、おそらく「独我論的な思考を内側から破る」突破点
なのだろう、と思います。

「意味は自分で付けていい」と聞くと、2015年1月現在でまだブームは続いている
(っぽい)アドラー心理学を思い出す方も多いかと思いますし、私もそうでした。

それに、アドラー心理学で言う共同体感覚も、この縁起という考え方と親和性が
ありそうに思えます。

この切り口は、なんか凄いこと思いついたんじゃないか、と思いましたが、
すでにやられてました(笑)



仏教とアドラー心理学―自我から覚りへ: 岡野 守也


……ということで、縁起の思想というのは、少なからぬ人が「重たくて重たくて、
自分が自分であることが辛い」と苦しんでいるいう状況に対しては、
ひとつの重要な護身術(護心術)になるのではないかと思います。


「自分が自分であることが辛い」」という感じは、ピンとこない人には
何を言っているのかよくわからないかもしれませんが、これがピンとくる
ようなご同輩には、ご一読をお勧めいたします。はい。

2015/01/28

第53冊&第54冊 意識の奥底から聞こえる「声」『神に追われて』&『ドグラ・マグラ』




神に追われて: 谷川 健一

怖い本です。


民俗学の権威がフィールドワークの中で、
実際に出会った神がかりの人の半生を
まとめた本。


つまり、実話から成っているわけです。


絶版ですが、プレミアがついて取引されるくらい、
ソチラの世界に興味のある方は読みたがる本なのです。

谷川健一の全集にも収められているので、
お金かかっても良ければ、読むこと自体は
難しくありません。

普通に暮らしている人間からすると、
神がかりというと、

「神秘体験とか、超能力とかに
事欠かなくなるってこと?
刺激的な毎日を過ごせそうで、ちょっと
羨ましいかも」

みたいなイメージがある方もいらっしゃるかと
思いますが、この本で登場する人々の生活は、
もはや「刺激的」なんてものじゃありません。


本書に登場する神に憑依された人間(カンカカリヤ)の、
「普通の幸せ」は、彼らの頭の中から呼びかける
神の声によって、ズタズタにされていきます。

神の声、といえば、これですね。

 →参考:第7冊 神は、まだそこにいるのです
 『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
神に仕える役目を一方的に負わされ、自殺すると言えば
娘の命をとると脅され、神の声に従っての奇行から
結婚生活も破綻し、しぶしぶその声に従うカンカカリヤ、
「根間カナ」の姿を知り、それでも神がかりになりたい、
というのは相当な覚悟がいるでしょう。

途中、他の霊能者との霊能合戦まで勃発したり、
本当に大変です。ちなみに、霊能合戦は、前に
以下の本で見たような戦いと、やっぱり似ていたりします。


 →参考:第38&39冊 今も昔も超能力戦争だ!
 『洗脳原論』&『性と呪殺の密教』



その後、根間カナが、普通の医学や他の霊能者の手にあまる
相談事を引き受けるなど、カンカカリヤとして暮らし、様々な
トラブルを引き受けている様なども描かれます。


神の声に従ったおかげで、死期の近づいていた母が持ち直したり、
思春期の大半を全身をおそう痛みとの闘いで過ごした少女が
根間カナとの出会いでようやくその苦しみから解放されるなど、
いくらかの救いはありますが、何とも、壮絶。


この、個人の願う幸福や意思というものを、自分の奥底から
響く声がズタズタに破壊していく、という怖さは、どこかで
知っているな、と思ったのですが、ハタと思いだしたのが、
『ドグラ・マグラ』の中に登場する「心理遺伝論」であります。


こちらは電子書籍で読めますし、ある意味で推理小説でも
ありますので、あまり詳しく触れるのも野暮なので、未読の
方はぜひ、ご一読を。


ドグラ・マグラ 電子書籍: 夢野 久作


2015/01/27

第52冊+α 撃墜王vs.航空技術者 技術論なのに生きざまを問うてくる 『零戦の秘術』

いよいよ最後の質問である。
「果たして坂井三郎は左捻り込みで何機墜としたのであろうか」
私は答えを予想していた。
坂井とは長い付き合いである。少しずつ、 少しずつ、私は
この答えに近づいていた。

そして質問をする頃には、答えを知っていると確信していた。
それだからこそ、この質問をするのが怖かった。(p362)

 

生き延びた英雄



零戦の秘術 加藤 寛一郎


坂井三郎、という、第二次大戦において活躍した
大日本帝国のパイロットのことをご存じでしょうか。
月並みな言葉になりますが、大戦初期~中期の
代表的なエースパイロットのひとりです。


おもに海軍のパイロット時代のことを書いた
『大空のサムライ』という著書は、国内はもちろん、
翻訳されて海外でもベストセラーになっています。


大空のサムライ―かえらざる零戦隊: 坂井 三郎

少々、辛口すぎたりするもので、毀誉褒貶も激しい
ようですが、まあ、聖人君子だって悪いところを
クローズアップすれば極悪人に見えるもんです。


撃墜数もさることながら、 とんでもない激戦や
苦境を経ながら、本人だけでなく僚機も落とされずに
無事に生還してきた、ということが、戦争を知らない私に
とっては驚異なわけですが、この本では、確率論を超えて
坂井が生き延びてこられた理由の一端が、感じられます。


元ネタをさぐる旅の果てにいた、マンガみたいな人

私が坂井三郎のことを知ったのは、戦史とあまり
関係のない路線から、でした。


1990年代に、『無責任艦長タイラー』に始まる
「宇宙一の無責任男シリーズ」というSFシリーズが
一世を風靡しました。


当時は、ライトノベルという言葉は、ほとんど
広まっていなかったですが、その先駆けだった作品です。


小説そのものも面白かったのですが、既存の小説、マンガ、
映画、そして実際の戦史をモデルにしたパロディ等が多く
盛り込まれておりまして、当時の私は、まあ、その元ネタを
さぐるのも面白かったわけです。


そこに登場した、コジロー・サカイという 宇宙の戦闘機乗りが
まぁ、べらぼうにカッコイイわけなんですが、そのモデルが
坂井三郎だったのです(ついでに記すならば、コジロー・サカイ
を主人公にした外伝のタイトルは『大宇宙(おおぞら)のサムライ』
でした)。

大宇宙(おおぞら)のサムライ―コジロー・サカイ疾風空戦録 吉岡 平


……で、上記の『大空のサムライ』に行きつくわけです。



昼間の星が見える目をつくる


『大空のサムライ』は坂井三郎の自伝なわけですが、
この坂井三郎のものの考え方やエピソードというのが、
まあ、非常に面白いのです。


コジロー・サカイは架空の人物ですが、坂井三郎は、
ほんとにこんな方が実在したのか、と呆れるほどに、
まるでマンガ。


職人気質というか、空戦で勝つ、生き残るために何をするか、
懸命に考えストイックに努力する。


・鉄道に乗っている時は、窓を通過する瞬間に機銃を
 発射するつもりで手を動かして反射神経を高める
・目が効くように訓練し、結果、昼間の空でも星が見えるようになる
・メンタルを強くするために極限まで水の中で息をこらえ続ける

などなど。

そんな訓練の果てに、自分より視力が高い人間よりも
早く敵機を発見する超感覚を習得してしまった話や、
負傷して今の自分の位置もろくにわからない状態からラバウルに
生還する話
など、まあとにかく並みの小説ではかなわない、
迫力のあるエピソードが続きます。


未読の方はぜひご一読を。

「秘術」はどうやって生まれ、どうやって使われたのか


で。
前置きが長くなりましたが。


今回ご紹介する『零戦の秘術』は、そんな坂井三郎に
著者、航空技術者・科学者である、加藤寛一郎が
航空技術者ならではの視点で坂井の離れ業をじわじわと
解明しつつ、彼がなぜ生き延びられたか、ということを
考察する、そんな本です。

物事すべて、苦労は先にしろ。
みんな、何とかの知恵はあとから出ると言って、そのときに
なってから行きあたりばったりは駄目で、結局、真剣勝負と
いうのは先手必勝なんです。(p100) 

……という坂井らしく、実に緻密な考えの上に、自分を
鍛錬し、そして、生き延びています。

なぜ左捻り込みという技術が、いざという時に生き延びる
ための「秘伝」たりうるのか。

また、その技術の何がすごいのか。

それを習得するために、パイロットは何をしたのか。

そして、その技術を、坂井はどのように「使った」のか。

……といった疑問が、訊ねる加藤と答える坂井との連携によって
じわじわと氷解していくさまは、ある種の推理小説のようでもあります。


例えば、坂井の秘術である、「左捻り込み」。


敵機からは突如、坂井機が消えたようにすら思えるこの超絶技巧に
求められるのは、失速せず、かつ、より小さな旋回半径で
機を操ることのできる、精妙極まりないギリギリの線での操作。

速度と姿勢のどちらかがずれても、操縦不能か空中分解が起こる。(p208)

航空力学の観点と実際のパイロットである坂井の証言をつき合わせながら、
その技術の正体をじわじわと明らかにしていきます。


この本が、

 「学者の書いた小難しい、退屈な技術論」

に終始してしまわないのは、著者加藤が坂井の技術を理論的に
解剖していくだけでなく、、「秘術」やその使い方が、坂井三郎の精神性とは
切り離せないものであることを明らかにしていき、また、その坂井の精神に
著者が心酔している「熱」が伝わってくるからだ、と思われます。


いわば、技術の中にはその人自身の個性が、血が流れている、という、
その脈動を感じさせてくれるような本なのです


……ということで、冒頭の引用部の著者の質問に対する坂井の答えは、
この本のキモの部分ですので、ぜひ、本書を読んで、最後に「ええっ」と
思っていただければ幸いです。そこだけ先に読むと、いまひとつ、
響かないのでは、と思うので、ぜひ順を追って。


一度読んで、妙に印象に残ったフレーズで、今日のところは、さようなら。

パーンとロールを打たなきゃならん。(p43)

余談ながら、坂井が操縦していた零戦の設計者、堀越二郎
(宮崎駿の『風立ちぬ』主人公のモデルですね) も坂井の回想の中に
登場しますが、「正月早々、坂井の家に電話してきて、新年のあいさつも
なしに零戦を操縦していた時の感覚について質問してきて、自分の仮説に合った

答えを聞くや、礼を言ってすぐに電話を切った」というエピソードが、さすがだな、
と。

2015/01/16

第48~51冊 目指すなら、「意識高い系」より「無意識高い系」。下條信輔祭り 『サブリミナル・マインド』他

「意識できる認知なんて、無意識的に

行われている認知に比べれば貧弱貧弱貧弱ゥ!」



このブログは、無意識やら脳科学やらを
よくとりあげます。これはおそらく、ブログ主が
子どもの頃から、

「自分の見えている世界はどうやらものすごく
偏っているらしい」

という違和感を抱えているから、なのですが、
例えば、

第7冊 神は、まだそこにいるのです 『神々の沈黙
 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


で紹介した何冊かの本は、結構救いになったんです。

要するに、

「人間の意識なんて、わりと最近にできたもので、脳の
機能としては+αくらいのもんで、実は全然未完成」

「意識は、無意識が為したことを後追いで認識して、
もっともらしい解釈、ひどい言い方をするならば、
言い訳をするためのもの」

というようなことが書かれていていました。

今日ご紹介するのは、その無意識的な
認知がどれくらい強力であるか、ということを
認知神経科学の専門家である下條信輔さんが
論じた神本(かみぼん)たち。

何にでも「神」とか気軽につける風潮は
好きじゃないけど、つけちゃいます。


内容の主なテーマは一貫しているので、
どれから読んでもいいと思いますが、
現代社会の変化と意識のかかわりについて
一番濃縮されているものを読みたければ
 『サブリミナル・インパクト』がおすすめです。






リアルよりリアルなもの


本書では、「ニューラル・ハイパー・リアリズム」という概念を提唱していますが、この概念に触れる
だけでも、この本は買う価値があります。

現代社会の「脳をより活性化するものがよりリアルである」
という流れを示したものです。

「非現実的な」という評価そのものが的外れか、少なくとも古すぎるのでしょう。(p104)

神経科学的な表現を敢えてするなら、「脳内を活性化するものこそ最もリアル」と いう割り切った感覚刺激の追求です。さらに「物理的な現実味とは関わりなく」とか、「実際の社会的きずなとも関係なく、社会脳を刺激さえすれば」などと付け加える事もできます(同) 

しびれますね。
ヘタな実写よりはマンガやアニメ、ゲームのほうが感情移入
できてしまったりするのは、この「ニューラル・ハイパー・リアリズム」
社会にあってはむしろ当然の帰結でしょう。

いわゆる「二次元嫁」とかも。

もっとも、こうした特徴はおそらく音楽・映像等の技術が
飛躍的に向上したのと、仕掛ける側が神経科学を用いた

方法論に自覚的になってきているために加速しているもので
あって、おそらく文学、音楽、舞台、美術は昔からこうした
機能は持っていたのだとは思います。

あまたの通信手段、ソーシャルメディアに囲まれて、対人関係への
欲求の一部分だけは、サプリメントでも摂るように満たせるように
なっている現代の特徴をも、がっつり凝縮して説明できる概念だと思います。

余談ながら、こうした特徴ゆえ、現代にはこれまで無かったタイプの
孤独感が生まれているようにも私は感じます。新しいメディアは
新しい回路を開いているようでいて、その実、コミュニケーションの
窓を狭く限定するものでもある。


小窓がやたらたくさんついていて採光もばっちりで
一見、開放的なのに、玄関だけは固く閉ざされている家のような。

余計な人間関係に巻き込まれないように「快」の方向に向かった
結果として、別の生きづらさを背負い込んでしまっているような。
そして、ものごとをリアルを感じるかどうかは、無意識のレベルで
なされてしまうので、その流れに抗うことは実はたいへん難しい。

認知科学的な駆け引きは、もはや呪術合戦


マクドナルドの椅子は客の回転をよくするためにあえて
硬く作ってあるらしいが、では、こういう店側の意図に、
意識的に抗うことはできるのか、ということを例にして、著者は、
知ることは確かに知らないよりはいいでしょうが、
たぶん不十分です。気付いている/知っているだけでは
この場合ほとんど役には立ちません。アウェアネスは自由を
救えません。潜在レベルへのアプローチに対して、顕在的な意識や
意図では抗し切れません。

抗し切れないのはなぜか。そもそも情報処理の効率やスケールが
全然違うのです。潜在過程の効率のよさ、容量の大きさに較べれば、
意識なんてほんの小さな一片です。潜在過程に働きかける要因の方が
はるかに高い持続性、反復性を持っています。(p233~p234)
 とばっさり切っています。

仕掛ける側はより巧妙に「空気」として情報や商品などをデザインし、
それを潜在的な認知過程で処理してしまう受け手は、自らの自由意志と
思ったままに、その「空気」に左右されてしまう、という、平和でちょっと気持ち悪い
状態が加速している、というわけです。
 
せめて、たくさんの中にごく少数いる「マクドの賢い客」となりたいものです。
コマーシャルの世界も政治の世界も宗教の世界も、なにせ現代社会は、
硬い椅子だらけですから。 (p235)

ただ唯一対抗し、防御できる策があるとすれば、まずは情動と潜在認知の
仕組みを知ることです。そして知るだけではなくて、潜在レベルで対抗する策を
自覚的に講じることです。(p237)
と、あります。

じゃあ対抗する策って具体的にはどないすんねん、
というところには本書では触れられていませんが、
このへん↓の本には、対抗策のヒントがありそうに思います。

第38&39冊 今も昔も超能力戦争だ! 『洗脳原論』&『性と呪殺の密教』 

『洗脳原論』の苫米地英人さんも認知科学の研究者(?)で、社会にかけられた
自分の洗脳を解く、とか自分を洗脳し直す、みたいなコンセプトで自己啓発書なんかも
多数出している方で(まあ、その先は超高額セミナーの誘導だったりしますが)、
当たり外れはありますが、当たりの本はべらぼうに面白いです。

また、ほうぼうに講師がいて高額セミナーを開いているNLP(神経言語プログラミング)
なんかも、潜在認知の書き換えを行い、依存症等の治療に効果があるとうたわれて
いているので、この対抗策として使えるものかもしれませんが、まあ、私自身は
本を読んだだけで未経験なので何とも言えず。

効果のあるなしはともかく、社会の仕掛けてくる洗脳に対する護身術まで
ビジネスになっている
ということ自体は面白いと思います。

科学の注目分野のひとつである認知科学の発達によって、
われわれが直接そのプロセスをうかがいしれない潜在認知や情動を
めぐって、呪術合戦のような駆け引きが起こっているわけです。

一周回って、古来の呪術は、認知科学的には十分
根拠のある、実効的な方法だったとわかる日が来る
のかもしれません。

妄想ですが。

とりあえず、今日はここまでにしますが、他の
本も非常に面白いです。オススメです。

意識についての研究の
歴史を概観したければ
『サブリミナル・マインド』


錯覚とか思いこみに特に興味があれば、
『〈意識〉とは何だろうか』 (これは、サントリー
学芸賞まで受賞しています)

 

赤ちゃんの発育や教育に興味があれば、
『まなざしの誕生』

2015/01/15

第41~47冊 加害者たち≒被害者たちのディスコミュニケーション 『聲の形』


聲の形(1) (講談社コミックス): 大今 良時

これね、何らかの生きづらさ、みたいなものを
感じている方は、だまされたと思って
読んだほうがいいかもです。

小学生時代に、聴覚障害者の同級生を
イジめたことから自らもイジメの被害者と
なったことが後々まで影を落とし、自殺まで
決意した高校生の少年。

最期に少女への謝罪を試みるが……
その後少年を待ちうけていた転機とは。

……ってアオリだけだとなかなか手に取るのに
勇気が要ると思うんですが、


「この内容を大メジャー漫画誌でやってのけた」という「送り手側」と、
「その作品に絶大な支持を送った」という 「受け手側」とが
同時代に存在するだけで、この社会に絶望せずに済む気がする、
そんな作品です。


イジメと言えば現代の日本では無条件で「悪」とされてしまうわけで、
イジメられた側が自殺でもしようものなら、血も涙もない悪魔の
ような加害者が被害者をイジメ倒し、死に追いやったのだ
という文脈で話が終わってしまうンですが、この解釈、実は
現実的な問題の解決にほぼ役立ちません(「個人攻撃の罠」ですね)



そして、このマンガで描き出されてますが、イジメをする側も
される側も血の通った人間であり、また、その立場は容易に
入れ替わるものです。

イジメの主犯だった主人公「石田」が、いつの間にかイジメの
ターゲットになる不気味な事態は、「自分たちをイジメに加担させる
ような極悪人は排除すべし」という論理の帰結であり、
「イジメる側にいた自分」というものを認めたくないために
結果的に、イジメる側になってしまっている
という、皮肉な状態であります。

本作、序盤はイジメの話ばかりが目立ちますが、
実はイジメはキッカケでツカミで序曲にしか過ぎないのです。

排除の論理がはたらいているイジメとは、基本的には

「加害者側の人格に深入りさせず、被害者の人格に深入りせず」

という状態を作るための行動なのだと思います(逆に、相手の
人格がシッカリ見えたら、イジメはできないでしょう)。


その点、この作品は、人間関係のもっとエグいところまで
踏み込んでいきますので、安心して下さい(笑)。

他者同士の理解・和解の「不可能性」と、それでもなお、
理解しようとすることの意味、なんてことを考えさせて
くれるマンガです。