2015/02/03

第55冊+α 仏教のエッセンスはとことん論理的 『知的唯仏論』

知的唯仏論

知的唯仏論 宮崎哲弥 呉智英



「恩人」の本をひさびさに読む


私が高校生の頃、とある大思想家の本を読んで、
どうにもいまひとつ分からず、モヤモヤしていたことが
ありました。


そのモヤモヤをどえらくわかりやすく、スッキリと解説されて
いるのを読んで以来、呉智英さんのことは勝手に「恩人」として
認識してきましたが、ひさびさに読む、「恩人」の本です。


宮崎哲弥さんも、いっけん難しいことを解説する際の
切れ味が抜群でけっこう好きな評論家だったんですが、
その「師弟」が揃い踏みとは。


……ということで、気になっていた本です。
まいりましょう。


ガラケーならぬ、ガラブツ? 日本仏教の独自路線

まずこの本は、マンガや小説、伝統行事などを通して
日本人に根付いている「通俗的」な仏教観を
話のマクラにしつつ、仏教のエッセンスをじわじわと
抽出してみせます。


例えば、手塚治虫の『ブッダ』での輪廻転生の扱い方に
触れながら、原始仏教では、実は輪廻転生はそんなに
重視されていなかったのではないかなんていう話も
出てきて、目からウロコであります。


ピュアな原始仏教の教えは論理的に美しいくらいに
シンプルな、とってもアタマのいい教え
なのに、
その他の当時の民間信仰や、後代の人が足した色んなことが
ごたまぜに乗ってくる(日本仏教の、肉食帯妻OKルールも
そうですね)ので分かりづらかいのだ、ということが、次第次第に
見えてきます。


釈迦如来を本尊とする宗派は、禅宗以外にはあまりなくて、
日本の仏教は 釈迦より仏を上に置いている、とか、
花祭と釈迦の聖誕祭が習合したのは江戸末期、とか、
日本の仏教のガラパゴス的な進化についても、
原始仏教のエッセンスとの比較から、イメージを
大まかに把握できます。



わかったら負けだと思う宗教の「ポテンシャル」



もっとも、以前このブログでふれたように、

<仏教が「わかった」って思ったら、それは間違いなのだ>

 という論理的な仕掛けが仏教には施されていますので、
あくまでも、「暫定的な理解」だと思った方がいいかもしれません。

→参考:第40冊 仏教、何となくわかってるつもりの人に
     『仏教教理問答 連続対談 今、語るべき仏教』


 本書でも、
 そもそも理性によって捉えられ、見出した真理なんて暫定的なものでしかない。
 ……と表現されています。
面白いのは、宮崎哲弥さんが、リベラリズムの行き過ぎな台頭に危機感を抱き、

独我論的な思考への傾きはこの二十年ほどのあいだに、社会全体を覆いつつあり、もはや不可避なのではないかと思えます。

社会全体の「独我論化」を進めているのは先進成熟国において無敵の
公共哲学に成り上がりつつあるリベラリズム、とくに個人の自律と自己決定に重きを置き、「人それぞれ」を揚言する
主意主義的リベラリズムにほかならないということです。

その主意主義的リベラリズムを正面から批判しているのが、一昨年大ブームを巻き起こしたマイケル・サンデルのコミュニタリアニズムというわけです。(p223、宮崎)
負傷者の「助けて欲しい」という意志を確認できない限り、
見殺しにするのが「政治的に正しい」、「ポリティカル・コレクトな」
対応となりますから。

いまの話はいかにも極論にみえるかもしれませんが、実はそうでもない。
周知のように、尊厳死や脳死の議論の延長上で、「死の自己決定権」や
「自死権」が取り沙汰されています。リベラリズムの信奉者の大半が
これらを個人の自律権の範疇にあると是認するでしょうから、悪い冗談でも何でもなく、アクチュアルな課題です。(p228 宮崎)


とまで言います。
じゃあ、自由意思について、仏教はどう考えてるの?ということになると、

仏教は、完全に自由な意思などというものは端っから認めません。
すべての行為(ここでは意思も含む)は縁(条件)によって発生し、
縁(条件)によって消滅します。すべての縁から解放されるのは
悟りの境地に達したときだけです。世間(世俗世界)において、
万物の生滅は仮言的で、条件付きなのです。(p230 宮崎)

……と、小気味よく切って捨てます。

仏教は「この私」を救えるのか


以前ご紹介した通り、実は人の意思決定なんてものは、
大部分が無意識によって左右されてしまうのだ、なんていうことが
最新の脳神経科学、認知科学の成果として出て来てしまっています。

→参考:第48~51冊 目指すなら、「意識高い系」より「無意識高い系」。
     下條信輔祭り 『サブリミナル・マインド』他

個々人の意志をとにかく尊重すべし、というリベラリズムが
行き過ぎるのは、確かに危険に思えてきます。


本書では、リベラリズム≒独我論の偏重とセカイ系コンテンツの
相関関係などにも触れつつ、じゃあ、教祖が生まれてすぐ「唯我独尊」って
言っちゃった(笑)仏教って、何が救えるの?……というところにまで
切り込みます。

社会がどうあろうが、たとえば完全無欠の理想社会が
訪れようが、そこでも解消できない「この私」の苦しみこそが
仏教本来の救済対象なのです。(p232 宮崎)
やはり宗教たるもの、社会体制や普通の倫理で救えない部分まで
受け持ってほしいものです。

今はやりのピケティのパクリで言えば、

 religion > government

……ってことで。ええ、無理矢理 r > g にしましたとも。

独我論的な思考を内側から破る方途を提供できる、
たぶん唯一の実践哲学なのに、誰もそこに注目しない。
『この比類なき私』から『縁起する無我』で出る仏教だからこそ
可能な「救済」ですのに。
(p240 宮崎)

これ、すごいエッセンスだと思うんです。

独我論ってのは、突き詰めると、


「(その人にとっては、その人にとっての世界が全てなんだから)
人それぞれ、何したっていいよね」

になるわけですが、仏教の縁起の思想は、

「全ては関係性から成り立っていて、あらかじめ存在するものとか、
そもそもの意味なんてものはない。ただ、それを意味づけることはできる」


……ということになります。

自分の認識している世界がすべて=自分が正解だ、とするのと、自分が
意味付けできる、ということは一見、似ている。似ているけれど、結構な差がある。

この、似ているけど違う部分が、おそらく「独我論的な思考を内側から破る」突破点
なのだろう、と思います。

「意味は自分で付けていい」と聞くと、2015年1月現在でまだブームは続いている
(っぽい)アドラー心理学を思い出す方も多いかと思いますし、私もそうでした。

それに、アドラー心理学で言う共同体感覚も、この縁起という考え方と親和性が
ありそうに思えます。

この切り口は、なんか凄いこと思いついたんじゃないか、と思いましたが、
すでにやられてました(笑)



仏教とアドラー心理学―自我から覚りへ: 岡野 守也


……ということで、縁起の思想というのは、少なからぬ人が「重たくて重たくて、
自分が自分であることが辛い」と苦しんでいるいう状況に対しては、
ひとつの重要な護身術(護心術)になるのではないかと思います。


「自分が自分であることが辛い」」という感じは、ピンとこない人には
何を言っているのかよくわからないかもしれませんが、これがピンとくる
ようなご同輩には、ご一読をお勧めいたします。はい。

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