宗教と信仰

とりあえず、宗教やら信仰やらについての本を
色々読んでおりますが、まあ、こんなスタンスで
読んでいます、ということをまとめてみました。

「信じる」という呪縛


人は「信じる」ことからナカナカ自由になれないもののようです。

宗教はアヘンである、といったマルクスの唱えた共産主義が
実質的に宗教としか思えないカタチで「発展」を遂げてしまったし、
現在世界を席巻している資本主義だって、ある種の宗教と
言えなくもない。

「キレイな絵が印刷された古びた紙」が、様々なものに交換
可能な価値を持っている、と「信じて」いるから、それが欲しくて
人を殺したり、それが足りなくて自殺したり、なんて人も後を
絶たないわけです。

私は、宗教やそれを信じる人のありように昔から興味が
あり、色んな本をつまみ食いしてきました。キリスト教系の
学校にも仏教系の学校にも在籍したことがあり、また、
熱心な宗教勧誘にあうこともしばしばでしたが、今に至るも、
特定の信仰はありません。

そんな私からすると「教義に殉じて死ぬ」ってのは、全然ピンと
こなかったわけですが、「お金の為に人を殺す感覚や自殺する
感覚」っていうものは、悲しいかな、何となくは想像が及びます。

これって、ある意味私が資本主義教の教義にある程度染まっている、
というコトなんだと思います。


資本主義も科学も、「信仰」されている?


そんな資本主義の考え方の根源は、プロテスタントの考え方にある、
という説は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と
資本主義の精神』で唱えられてもはや定説のようになっています。

また、宗教と対比して語られることの多い科学だって、ニュートンを
始め多くの科学者は信仰心に篤く、神がこの世に仕掛けた「理」を
明らかにするつもりで研究を進めていたのだ、とも言われています。


   




キリスト教から生まれた科学の世界で、ゲーデルが不完全性定理を
証明し、「全知全能の神」は存在しない……ということの証明になってしまった。

ある意味、キリスト教という親に対する、科学の「親殺し」が発生したという考え方が
ありますが、このあたりは、今度は小澤不等式がその不完全性定理を書き変え……
と、わたしのアタマでは理解不能なエキサイティングな攻防(?)が続いておるようです。

で、「親殺し」とまではいかなくとも、科学と言うと一般的には迷信や信仰とは
逆の側に置かれるものですが、ところがどっこい。こんな記事もあります。↓

   科学と信仰は脳のなかでは同じ、あるいは極めて同じ(極東ブログ)http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/10/post-e6ae.html
  科学と信仰は脳のなかでは同じらしいという研究の話が一日のニューズウィークに載っていた。「Fact Impact」(参照) である。リードは「New study of the brain shows that facts and beliefs are processed in exactly the same way(最新研究によれば、脳は事実と信仰をまったく同様に処理している)」というものだ。

なるほど……と思います。

もっとも、この記事の「事実と信仰をまったく同様に処理している」という
書き方には私としては微妙に違和感があります。

事実と信仰が同等というのではなくて、おそらく、我々は、一見宗教的で
ないもの、例えば科学やイデオロギーや倫理といったものに対しても、
「信仰」と呼べるような、強固な思いこみをベースにしないと世界が
観られないのではないか、と思うのです。

要するに、信仰というベースに基づいて、事実すら脳内でどう処理されるかが
変わってしまう、ということです。

あえて極端な例を出しますが「人を殺すのはいけない」という倫理だって、
なぜいけないのか、ということを究極的に突き詰めると、実は根拠がないように
思えます。

「だって自分も殺されたら嫌でしょう?」ってのも「イヤじゃない」と言われたら
おしまいですし、「法で決まっているから」と言われても、「じゃあ法を変えれば
いいのか」という話になってしまいます。「OKにしたら皆困るから」と言われても、
「じゃあ、困る人も残らないように、一瞬で全滅させればいいの?」……という
話になるわけですが、基本的に、我々は人を殺すのはいけない、と思っている
ので、例えば殺人者が目の前にいる、としたら、おそらく強力な嫌悪や恐怖を
感じることでしょう。

つまり、根拠のない「信仰」に基づいて、事実を認識しているわけです。
事実を、透明な事実そのものとして認識することなんか、多分できないだろう、
というのは、このように考えるからです。

で、おそらく、宗教、イデオロギー、趣味や特定個人などに対しての
あらゆる「信仰」が、人間社会の諸問題と関わっているんじゃあないかな、
というのが、おそらく私の興味の矛先です。


「信じる」人は戦い続ける?

ユダヤ教とキリスト教とイスラム教が信じている唯一神は
実は同じ、という話を聞いた時、私は驚いたものです。

えぇっ、じゃあケンカする必要ないんじゃないの、と。

事実、最後発であるイスラム教の教義は旧約聖書をベースに
している宗教の信徒を「啓典の民」と呼び、長いこと共存してきた
と言われています。




まあ、それがいつしか、不仲な兄弟に……。


深い信心が、他の信仰を排斥・攻撃することに繋がるあたり、
この「信仰」という「機能」、もう少し抑え気味に作れなかったのかしら、
と思ってしまうのです。

仏教も教えの核の部分は、実は、

 「執着するな≒絶対のものがあると信じるな」

……ということになり、ある意味「メタ宗教」というか、あらゆる信仰を
相対化するための仕組みを備えた、面白い宗教だと思うのですが、
仏教発祥の地インドでは、わかりやすくキャラ作りのされた神様が
わんさかいるヒンドゥー教に圧倒されてしまいます。

仏教の伝統を引き継いだチベットでも、ヒンドゥー教に対抗するために、
「ヒンドゥー教の神様が仏教に帰依した状態の仏」(シヴァ神→大自在天)
とか、、ヒンドゥー教の神様の「天敵」を考案したり(閻魔大王=ヤマより強い、
という設定のヤマーンタカとか)してヒンドゥー教の行者と呪術合戦を
行っていたようで、やはり、普通の人間の感覚からすると、

 「信じるな、信じるなというこの言葉も信じるな」

という世界は、ハードルが高いのかもしれません。


日本に渡った仏教も、浄土真宗の阿弥陀信仰など、一神教的な性格を
帯びたり、果ては同じルーツの仏教系の新興宗教同士が骨肉の争いを
してみたり。

仏教本来の「脱構築機能」みたいなものがいまひとつ受けなかったのは、
やはり、絶えず疑うことを信仰の中核に据えるような教えはちょっと
「難しい」ということなのかもしれません。
 


……とまあ、色々書いてきましたが、この「信仰」によって、時々人が
奇跡のようなことを起こしたりすることがあるのも確かであり、
私が生業にしている代替療法の世界でも、しばしば、信仰心が
驚くべき結果を生んだりすることもあるわけで、何とか、この「信仰」の
無毒化、あるいは毒性の軽減をはかって、美味しいトコどりを
できないものかと思うのですが。

このブログを綴っている背景に、そんな思いもあることを知っていただければ、
幸いです。

その他、宗教と世界にからみそうな本

あまりちゃんとレビュー書いてませんが、とりあえずご紹介。

 
世界がわかる宗教社会学入門 (ちくま文庫): 橋爪 大三郎


世界の主な宗教を大づかみに理解するには格好の
本だと思います。細かい点は詳しい方からすると
突っ込みどころはあるかもですが、この先生の本らしく、
要素の抽出、比較は絶妙で、わかりやすいです。


 
ゆげ塾の構造がわかる世界史

基本、世界史の本なのですが、この本のキリスト教の
「童貞宗教」という視点は素晴らしくわかりやすいです。


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