2015/02/13

第59冊&第60冊+α 精神医学の重鎮が紡ぐ、自らの必殺技とその訓練法の歴史   『精神科養生のコツ』&『技を育む』

資質の凸凹という制約のせいでいろいろな分野を諦めて 、
狭い一筋の道に縋って生きてきました。個々の技の良否や真偽はともかく、
これしかできない宿命や運命を、「これをやろう」と思い定め、専ら内なる促しに
従って歩むと、嫉妬や羨望に苦しむことが少なく、納得と安らぎの終末を迎える
ことができるようです。そうした一個の人生を例示できた歓びがあります。  
(中略)
ボクは資質の凸凹、人としての未熟さ、そしてなにより技の未熟のせいで、 幼児期いらい今日まで、多くの方々に負担と害を及ぼしてきました。おそらく残された人生も同じような歩みとなりましょう。謝罪を籠めて、本書を捧げます。(『技を育む』あとがきより)

技術について、人生について、人間関係について、様々な示唆を含んだ
美しい結晶のようなあとがき。

私は「あとがき」から本を読んでしまうことが多い人間なのですが、
この「あとがき」は、数あるあとがきの中でも、かなり「響き」ました。
これで著者のファンになることが確定したような感じでした。


まずご紹介するのは、ベテラン精神科医が、精神科がらみの疾患を
抱えた人に勧める養生法を紹介した
『精神科養生のコツ』。


主に患者さんが自分でできるように、と養生法を紹介した本ですが、

「ええっ、精神科の先生が、こんな代替医療系の
方法や、ものによっては半分オカルトみたいな
方法を勧めていて、大丈夫なのかしら」

……と驚く内容。

自分での整体は序の口。

Oリングテスト等の筋力テストにより
モノやコトの身体への無害有害をチェック。

気功を使ってイメージで身体を整える。

さらには、既存の代替療法の併用も示唆。

精神医学的に、それってアリなの……?と思いますが、、
斯界で先生の元に勉強しに来る精神科医がひきもきらず、で、
事実、良い結果を叩き出し続けているようなのです。

何でそんな方法に行きついたのか、というところの
根幹の考え方は、以下のような文にもあらわれています。

精神科治療学が医学の他の分野に遅れているのは、
動物実験で代用できる部分が少ないせいです。精神の病は、
動物であるヒト種の病ではない、人間の病だからです。
その理由は、わたしたちはヒトではなく、内側に文化を組みこんでいる
人間というありようであり、そのありようを脱することはできない
からなのです。
いま必要なのは、他の生物と同じようにもっている、原始生命体としての
機能を呼び戻し、それと、進化が生み出した人間というありようとの和解を図る
ことです。昨今、哲学の分野からその作業が進められているようです。
わたくしは病と養生の現場で同じ作業を試みているのでしょう。(まえがきより。
傍線引用者)

   
改訂 精神科養生のコツ: 神田橋 條治


つまり、「文化」にまみれてしまった人間に、生命体としての
力を呼び戻すことで対処したり、カウンターで別の「文化」を
ぶつけることで変化を与える……といった方法論なのだと
私は理解しました。


このへん、中井久夫先生の『治療文化論』なんかと
読み比べるとまた面白いものです。



治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫): 中井 久夫


こちらの本は、精神異常を論じるにあたって、


「そもそも健常者なるものの存在を疑う」

という視点で、精神疾患とか精神の異常って
そもそも何だろう、と考えさせてくれるので、
狂気とか異常心理とかいうキーワードで
ときめいてしまう御仁にはオススメです。


神田橋先生の本の話に戻ります。

で、二冊目。

手さぐりで進むしかない精神疾患に対して、
周りからどう思われようとも、効きそうなものは端から試し、
オカルティックな治療や養生法に行きつく……

じゃあ、どうやってそんな技術を検証し、磨いたのか、
ということを神田橋先生が、自分史として書いたのが
この本、本記事冒頭にあとがきを引用した『技を育む』。



技を育む (精神医学の知と技): 神田橋 條治


精神科医として、言葉に力を持たせるために発声練習をしたり、
相手の身になって考えるためにイメージで相手に「憑依」したり、
全身をセンサー化するためにOリングテストから独自の方法論を
編み出したり、経絡理論に基づいた身体の操作を、自分なりに
検証したり……。


一世一代の「技芸」として、技術が磨かれ、
洗練されていくさまは、迷い、ためらいの連続ではありますが、
そうして繋がっていった連鎖は、驚くほど論理的に見えたりも
します。


例えばエリクソン派の催眠(昨今流行りのNLPの源流ですね)に
通じそうな非言語的なコミュニケーションやイメージ操作技法をどうやって
模索する際に、じゃあ、具体的なイメージのネタはどこから持ってくるか、
とか。


科学的検証に耐えるような類の「論理」ではないにしても。
精神疾患という無灯の世界に、ナントカ自分なりの灯りを
ともしていくために様々な概念や方法を試し、捨て、再利用し、
改善し……ということを考え続けている姿は、オカルト治療法、
と一笑に付すにはもったいない深みを感じます。


このへん、自分の頭で考え身体で試し、自らの「技」を高めていく
ことを述べている、『零戦の秘術』にも通じるかもしれません。

 参考 →第52冊+α 撃墜王vs.航空技術者 技術論なのに生きざまを問うてくる 『零戦の秘術』


こういう切り口、生き方もありか、と読むだけで不思議と元気になる
二冊であります。精神医学にオタク的な興味をお持ちの方も、
一読の価値ありではないかと思います。

2015/02/10

第58冊 読むたびに仕掛けに気付く、ネタ&メタづくし小説 『屍者の帝国』


 「あんたは、生命とはなんだと思う」 
笑い飛ばされるかと思ったが、振り返ったバーナビーは不思議そうな顔で淡々と告げた。 
 性交渉によって感染する致死性の病」

屍者の帝国 (河出文庫): 伊藤 計劃, 円城 塔


メタづくしの帝国


いまここにある命をこじらせている、わたしやあなたに
おすすめの一作です。


死体にネクロウェアというプログラムを書き込んで
「屍者」として労働させる技術が発達した、架空の
19世紀の世界を舞台にした物語。


夭逝した伊藤計劃(わたしのブログ筆名の元ネタですね)の
遺したプロローグとA4ペラ一枚のプロットを元に、同時期に
ハヤカワでデビューした円城塔が完成させる……という、
亡くなってしまった作家と、存命の作家のコラボという点が
この作品のテーマとも響き合い、メタ的に読めて、ああ、
あざといな、と(いや、褒めてるんですよ)。


『ドラキュラ』に『フランケンシュタインの怪物』、
『カラマーゾフの兄弟』に『風とともに去りぬ』、『未来のイヴ』、
等等……の作品を読んでいるとなお楽しめる色々な小ネタが
満載なので文学オタにはたまらないものがありますし、
『007』シリーズへのオマージュなどもあります。


19世紀の世界情勢や医学史などをぼんやりとでも知っていると
なお楽しい仕掛けが満載です。


エピローグで、主人公のその後がどうなるか、
というあたりでは、やっぱりとニヤリ。


また、情報科学の歴史をちらりとでも知っていると、
バベッジマシーンが海底ケーブル等を用いて相互に
ネットワーク化されているスチームパンクな世界観も
また愉し、です。きっと、この世界ではニコラ・テスラの
提唱する全世界システムは実現されるのでは、などと
妄想が止まらなくなります。


まぁ、悪く言えば衒学的で中二病的とも言えますが、
仕方ないじゃん、そういうの好きなんだから(笑)。


肉体で考える、という「別の解」




個人的に注目したいのは、作品中では悩める主人公の相棒、
コミックリリーフで肉弾戦担当の英国軍人バーナビー。


主人公には粗野で思慮に欠けることをさんざん揶揄されていますが、
本記事の冒頭、主人公との問答でもわかるとおり、なかなかどうして、
頭の回転の早い人物です。論理的積み重ねよりは直観で答えを
ブチ抜く類の頭の良さですが。


人造人間やら屍者やらがひしめく中で、生身の人間であるはずの
彼の方が超人に見える、ってのが凄い。主人公一行の中では唯一
「実在する人間」をモデルにしているはずなのに。


第一部で、主人公たちがアフガニスタンの中で目的地にたどり着くのは、
結局、バーナビーの直観&棒倒しのおかげですし(笑)。


頭でアレコレ悩む主人公に対して、「身体で考える/動く」バーナビーの
存在があることは、主人公たちの旅を救っています。


また、彼の行動様式そのものが、最後に主人公が為す重大な選択に
対してのアンチテーゼ
にもなっているように思えます。


私自身は、意識なるものは身体性と切り離すことは
困難だと思っておりまして、「身体で考える/動く」
バーナビーは、主人公がたどりついた意識や魂に
ついての思索とは別の結論を提示している
存在に見えるのです。


……とまぁ、そんな風に色々に読める仕掛けが
満載の小説です。


本棚に置いておいて、損はないと思います。


今年アニメ映画になるそうです。なまじ好きなだけに、
期待と心配が入り混じりますけれどね。





余談。

本作の「元ネタ」としても重要な『フランケンシュタイン』と
『ドラキュラ』は極めて近しい人たちが書いた物語で、
フランケンシュタインの作者メアリ・シェリーと、ドラキュラの
実際の作者ポリドリは、スイスのレマン湖のほとりで、
詩人バイロン卿の提案でそれぞれの作品を書き上げた、
と言われています。

参考:ドラキュラとフランケンシュタインhttp://flash.dojin.com/ssplanning/byron/d_f.html

リンク先にもある通り、このバイロン卿の娘エイダが、
コンピュータの元祖とも言われて情報科学の歴史の
最初の方に登場する「バベッジマシーン」の開発に協力して、
「世界初のプログラマー」と讃えられていて、こんな狭い
交遊範囲の中がネタの宝庫ってのはすごいもので、
作家ならぬ我が身でも、何か小説の一本でも書きたくなります。

2015/02/09

第56冊&第57冊 毀誉褒貶の激しい怪エンタメ作 『ジェノサイド』


 ジェノサイド 上 / 高野 和明
 ジェノサイド 下 / 高野 和明


アフリカの奥地に誕生した、人類を滅ぼす可能性のある、
まったく新種の生命体の正体や、いかに。


SFでミステリーで、息子のために戦うおっさんや、
パッとしない感じの大学院生が、運命に翻弄される
うちにカッコよく見えてくる、ハリウッドのアクション映画っぽい
展開にミステリー要素や生命科学系のネタを叩きこんだ、
贅沢なエンタメ作品です。


この作品、レビューの毀誉褒貶の割れ方も見ものだったりします。
というか、ミステリーの仕掛けに踏み込むのも野暮なので、
今日はその毀誉褒貶のほうにしか触れません(笑)。


タイトルから推察されるように、虐殺に至ってしまう
人間の残虐性、みたいなことが作品の中でも重要な主題に
なっておるのですが、まあ、それに関して、小説内の「語り手」が
唐突に語る政治的主張が鼻につく、といった批判がとにかく
多いのです。


単純に内容がつまらなかった、という批判は少数派ってところが
面白いところで、おそらくなまじエンタメ作品として面白いのが、
可愛さ余って憎さ百倍というか、なぜそれなりに美味しい料理なのに
妙な調味料を横からブチ込んだんだ、興ざめしたじゃねーか!

という怒りなんですよね。


単純に面白くないと切って捨てられる小説は数あれど、
「余計な部分さえなければ」とこれだけ叩かれる「面白い小説」
ってのもちょっと珍しいと思います。


文庫化に際して、その気になれば叩かれるポイントを削る or 変更
することもできた筈なのに、そうしていない、というのも凄いです。


いっそのこと、『高い城の男』のように、実はこの世界では
○○大虐殺は本当にあった、という異世界なのだと思えば
いいのではないでしょうか。


余談
まあ、disり&虐殺つながりで、よろしければ、こちらも読んでやってください。

参考:第2&3冊 disる言葉が、今日もどこかで増えてます
    『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃



2015/02/03

第55冊+α 仏教のエッセンスはとことん論理的 『知的唯仏論』

知的唯仏論

知的唯仏論 宮崎哲弥 呉智英



「恩人」の本をひさびさに読む


私が高校生の頃、とある大思想家の本を読んで、
どうにもいまひとつ分からず、モヤモヤしていたことが
ありました。


そのモヤモヤをどえらくわかりやすく、スッキリと解説されて
いるのを読んで以来、呉智英さんのことは勝手に「恩人」として
認識してきましたが、ひさびさに読む、「恩人」の本です。


宮崎哲弥さんも、いっけん難しいことを解説する際の
切れ味が抜群でけっこう好きな評論家だったんですが、
その「師弟」が揃い踏みとは。


……ということで、気になっていた本です。
まいりましょう。


ガラケーならぬ、ガラブツ? 日本仏教の独自路線

まずこの本は、マンガや小説、伝統行事などを通して
日本人に根付いている「通俗的」な仏教観を
話のマクラにしつつ、仏教のエッセンスをじわじわと
抽出してみせます。


例えば、手塚治虫の『ブッダ』での輪廻転生の扱い方に
触れながら、原始仏教では、実は輪廻転生はそんなに
重視されていなかったのではないかなんていう話も
出てきて、目からウロコであります。


ピュアな原始仏教の教えは論理的に美しいくらいに
シンプルな、とってもアタマのいい教え
なのに、
その他の当時の民間信仰や、後代の人が足した色んなことが
ごたまぜに乗ってくる(日本仏教の、肉食帯妻OKルールも
そうですね)ので分かりづらかいのだ、ということが、次第次第に
見えてきます。


釈迦如来を本尊とする宗派は、禅宗以外にはあまりなくて、
日本の仏教は 釈迦より仏を上に置いている、とか、
花祭と釈迦の聖誕祭が習合したのは江戸末期、とか、
日本の仏教のガラパゴス的な進化についても、
原始仏教のエッセンスとの比較から、イメージを
大まかに把握できます。



わかったら負けだと思う宗教の「ポテンシャル」



もっとも、以前このブログでふれたように、

<仏教が「わかった」って思ったら、それは間違いなのだ>

 という論理的な仕掛けが仏教には施されていますので、
あくまでも、「暫定的な理解」だと思った方がいいかもしれません。

→参考:第40冊 仏教、何となくわかってるつもりの人に
     『仏教教理問答 連続対談 今、語るべき仏教』


 本書でも、
 そもそも理性によって捉えられ、見出した真理なんて暫定的なものでしかない。
 ……と表現されています。
面白いのは、宮崎哲弥さんが、リベラリズムの行き過ぎな台頭に危機感を抱き、

独我論的な思考への傾きはこの二十年ほどのあいだに、社会全体を覆いつつあり、もはや不可避なのではないかと思えます。

社会全体の「独我論化」を進めているのは先進成熟国において無敵の
公共哲学に成り上がりつつあるリベラリズム、とくに個人の自律と自己決定に重きを置き、「人それぞれ」を揚言する
主意主義的リベラリズムにほかならないということです。

その主意主義的リベラリズムを正面から批判しているのが、一昨年大ブームを巻き起こしたマイケル・サンデルのコミュニタリアニズムというわけです。(p223、宮崎)
負傷者の「助けて欲しい」という意志を確認できない限り、
見殺しにするのが「政治的に正しい」、「ポリティカル・コレクトな」
対応となりますから。

いまの話はいかにも極論にみえるかもしれませんが、実はそうでもない。
周知のように、尊厳死や脳死の議論の延長上で、「死の自己決定権」や
「自死権」が取り沙汰されています。リベラリズムの信奉者の大半が
これらを個人の自律権の範疇にあると是認するでしょうから、悪い冗談でも何でもなく、アクチュアルな課題です。(p228 宮崎)


とまで言います。
じゃあ、自由意思について、仏教はどう考えてるの?ということになると、

仏教は、完全に自由な意思などというものは端っから認めません。
すべての行為(ここでは意思も含む)は縁(条件)によって発生し、
縁(条件)によって消滅します。すべての縁から解放されるのは
悟りの境地に達したときだけです。世間(世俗世界)において、
万物の生滅は仮言的で、条件付きなのです。(p230 宮崎)

……と、小気味よく切って捨てます。

仏教は「この私」を救えるのか


以前ご紹介した通り、実は人の意思決定なんてものは、
大部分が無意識によって左右されてしまうのだ、なんていうことが
最新の脳神経科学、認知科学の成果として出て来てしまっています。

→参考:第48~51冊 目指すなら、「意識高い系」より「無意識高い系」。
     下條信輔祭り 『サブリミナル・マインド』他

個々人の意志をとにかく尊重すべし、というリベラリズムが
行き過ぎるのは、確かに危険に思えてきます。


本書では、リベラリズム≒独我論の偏重とセカイ系コンテンツの
相関関係などにも触れつつ、じゃあ、教祖が生まれてすぐ「唯我独尊」って
言っちゃった(笑)仏教って、何が救えるの?……というところにまで
切り込みます。

社会がどうあろうが、たとえば完全無欠の理想社会が
訪れようが、そこでも解消できない「この私」の苦しみこそが
仏教本来の救済対象なのです。(p232 宮崎)
やはり宗教たるもの、社会体制や普通の倫理で救えない部分まで
受け持ってほしいものです。

今はやりのピケティのパクリで言えば、

 religion > government

……ってことで。ええ、無理矢理 r > g にしましたとも。

独我論的な思考を内側から破る方途を提供できる、
たぶん唯一の実践哲学なのに、誰もそこに注目しない。
『この比類なき私』から『縁起する無我』で出る仏教だからこそ
可能な「救済」ですのに。
(p240 宮崎)

これ、すごいエッセンスだと思うんです。

独我論ってのは、突き詰めると、


「(その人にとっては、その人にとっての世界が全てなんだから)
人それぞれ、何したっていいよね」

になるわけですが、仏教の縁起の思想は、

「全ては関係性から成り立っていて、あらかじめ存在するものとか、
そもそもの意味なんてものはない。ただ、それを意味づけることはできる」


……ということになります。

自分の認識している世界がすべて=自分が正解だ、とするのと、自分が
意味付けできる、ということは一見、似ている。似ているけれど、結構な差がある。

この、似ているけど違う部分が、おそらく「独我論的な思考を内側から破る」突破点
なのだろう、と思います。

「意味は自分で付けていい」と聞くと、2015年1月現在でまだブームは続いている
(っぽい)アドラー心理学を思い出す方も多いかと思いますし、私もそうでした。

それに、アドラー心理学で言う共同体感覚も、この縁起という考え方と親和性が
ありそうに思えます。

この切り口は、なんか凄いこと思いついたんじゃないか、と思いましたが、
すでにやられてました(笑)



仏教とアドラー心理学―自我から覚りへ: 岡野 守也


……ということで、縁起の思想というのは、少なからぬ人が「重たくて重たくて、
自分が自分であることが辛い」と苦しんでいるいう状況に対しては、
ひとつの重要な護身術(護心術)になるのではないかと思います。


「自分が自分であることが辛い」」という感じは、ピンとこない人には
何を言っているのかよくわからないかもしれませんが、これがピンとくる
ようなご同輩には、ご一読をお勧めいたします。はい。