宇宙倫理学入門
リベラリズムの観点から、宇宙開発のありようとその未来を問うてみる、という「いやその切り口は予想してなかったわ!!」という奇書であります。
例えば、「技術的には無人で済むはずの宇宙航行を、あえて人命を危険に晒す有人で行う必要があるのか?」という問いが立てられます。リベラリズムはものすごくざっくり言えば「公のために死ぬとか犠牲になるとかナシ。個々人の幸せの最大化が大事」という路線の考え方ですので、「人類のための尊い犠牲」みたいな物語じゃやっつけられません。そんな感じで論を立てて考えていくと、次から次へと問題が浸み出してきます。
「いや有人じゃないと、仮に他所の知的生命体と遭遇したりしたらまずいのでは?」ときたら、「改造人間、ポストヒューマン……いや、自律的判断ができるのなら、人命優先、ロボットに高度な知性を与えて自律的判断が可能にすればいいんじゃないか」ときて、「いやいや、高度な知性で自律的判断が可能なもの、というのが誕生したら、多かれ少なかれそれは、社会的には人間に準ずる扱いが必要になるのではないか。だとしたら、宇宙船に乗せて飛ばすにしても本人の意思が大事に」……といった具合に、むこう数百年がかりでようやく現実化するかもしれない技術をも視野に入れた、著者曰く「ミドルレンジ」の議論が展開されていきます。
個別の議論の面白さもさることながら、過酷な宇宙進出という「極限状態」を想定することにより、古代の徳に基づく倫理学(徳倫理学)とリベラリズムの対立軸が明確になり、倫理ってのがそもそも何を問うものなのか、ということを見せてくれること。個人の徳を説く徳倫理学は、不可避的に個人をより徳に優れた人とそうでない人、という「差別」を含んでしまう、というのは言われてみれば確かにその通り、目からウロコでした。
「死と危険にずっと近い側」に人間(ないしは、人間に近い知性を持つ何か)を追い込みうる有人宇宙進出は、リベラリズムよりむしろ徳倫理学のもとで行われたほうが、倫理的な困難が少ないように思えます。とすると、古今東西のスペースオペラにしばしば帝国を名乗ったり専制的な支配体制を持っていたりする国家が登場するのは、これまた古今東西の作家たちの、宇宙開発と倫理の関係に対する直感が素晴らしいと言えるかもしれません(宇宙への播種・植民と似たものを、過去の歴史上にヒントを求めるとどうしてもそうなる、という面もあるかもですが)。各種「銀河帝国」をそんな目線で捉え直すと、実に味わい深いものです。ゴールデンバウム王朝も神聖ラアルゴン帝国も、あるべくしてあったのだ、と。
もう一つ面白いのは、SFに昔より異星人が出てこなくなった、それは何故か、なんていうような、SFに対するある種の文学批評的な切り口。それに対する著者の見解は、個人的には実に唸らされるものでした。読んでいるうちにいつしか相当遠くに連れて行ってもらったような気分になる、幸福で遠大な読書体験を得られる、そんな奇書であります。
2017/08/22
2017/06/12
第90冊 私怨うずまく言論への論『現代ニッポン論壇事情』
北田暁大 栗原裕一郎 後藤和智
イースト・プレス (2017-06-10)
売り上げランキング: 1,874
イースト・プレス (2017-06-10)
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1960~80年代生まれ世代の3人の著者による、ある種の私怨に満ちた書、です。
70年代生まれのぼくも、ある種の私怨に身を焦がして、この書を購入したのだろう、と思います。
この本では、著名なリベラル派論客やその言説や言論環境を、3人の著者がぶった切っていきます。
面白いなぁと思うのは、ぼく自身が10代後半~20代前半頃のあいだの一時期にすごくハマったのに、その後なんだか読まなくなってしまったリベラル派論客たちにぼくが感じていた、その違和感の正体がじわじわと暴かれていくことです。以下のレビューは、その面白さのネタバレになってしまうおそれもありますので、興味を抱いた方は先に本のほうを読んでしまうことをオススメします。
「元若者」世代をスポイルする言説への反逆
この本で特に槍玉に挙げられているのは、内田樹さん。
このブログでも何度か内田樹さんの本を取り上げました。
学問的厳密性は犠牲になるとしても、所々の話題に対して感覚的・体感的な理解をさせてくれる、ありていに言えば「頭良くなった気にしてくれる」著者である内田樹さんの本は、わりと好みだったのです。
ただ正直、とりわけ内田さんのブログや著書などにある政治・経済関係の話題に対しては、かねてから強力な違和感がありました。
例えばですが、内田さんが中心になって書かれた、憲法9条に関する本で『9条どうでしょう』という本がありました。この本にあるウチダ式の護憲論というのは、かいつまんで書くと、「9条は、武士がこよりで刀を抜けなくしたのと同じような役割を果たしているものだから、このままがいいのだ、抜かずの宝刀として自衛隊を有していることに意味があるのだ」ということです。
当時の私は、「うーん、でもそれって、有事とあらば憲法も法律も無視して超法規的に動いて良し、って発想と裏表で、法治国家としては一番ヤバいやつじゃねーの?」という疑念が渦巻いたものでした(その後もうちょっと勉強したので、もうちょっと高度な反論がありますが、それは今回は傍におきます)。
その内田さんが2013年に、「私は今の30代後半から45歳前後の世代が、申し訳ないですが、“日本最弱の世代”と考えています」と発言したことがあり、当時はちょっとしたネット炎上の騒ぎになりました。
→参照:日本企業は若者とどう付き合うべきか? ~対談・内田樹【後編】 - 日経トレンディネット
今回ご紹介する本の著者のひとりである北田暁大さんは、内田さんのこの発言を知ったことが、この本の誕生のきっかけであると「はじめに」で述懐しておられますが、その思いは、同じ70年代生まれの私にも大いにうなづけることであります。
印象論でざっくり語られスポイルされてしまった「元若者」の、現・40歳前後~50歳前後世代は、特にこの本を読んでいただきたいと思います。
「言論」と認知バイアス
この本の終盤、対象へのレッテル貼りが好きな某有名論客が「自分だけが本質を見ている系」というレッテル貼り返しをされてバッサリ斬られているくだりはなかなか愉しいものですが、その箇所を読んで思ったのは、この本で批判されている論客たちにほぼ共通している重要なポイントがあるということです。
それは、「自身の表明した言論」あるいは「思想的立場」が強力な認知バイアスとして機能してしまい、もはや「仲間」や「信者」以外とのコミュニケーションが難しくなっている、ということです。
もっとも、これは人間誰しもが陥る可能性がある(というか、たぶん大なり小なりは陥っている)罠ですから、以って他山の石とさせていただき、現実世界について語るときは、なるべくエビデンスやロジックに基づいて語り、「ただの好み」は論そのものになるべく混入しないところに置いておくようにすんべえ、と思う次第であります(この点を端的に表したキラーフレーズがp218に登場しますので、ぜひご一読を)。
時代とともに消費され、使い捨てられてしまうような批評そのもののありよう。そんなものへの問い直しともなっている本書。
批判対象への怨みや怒りを隠しもしない鼎談スタイルには賛否あるでしょうけれど、あえて擁護すれば、この本の書き手たちは、それが自分たちの好みや違和感に由来することを、妙なオブラートに包んだりはしない、という点では実に誠実です。
その点は、この本で批判の矛先となっている有名論客たちが、しばしば私的な印象にしか基づいていないような論を「衒学的な用語による粉飾」や「恣意的な事実の歪曲(統計データの歪な解釈など)」によって語るのとは対照をなします(ちょっと脱線しますが、第3章では、エビデンス軽視とビッグデータ信仰が実は裏表で同一のものだと喝破されていて、おお、おお、なるほど、と膝を打ちました)。
現代の批評のありように違和感を感じている皆様、とりわけ「失われた20年」などというレッテルを貼られた時代に大人になってしまったご同輩には、ぜひとも薦めたい一冊であります。
2017/03/01
第89冊 脳の専門家による神秘体験の究極か。『プルーフ・オブ・ヘヴン』ほか
いきなり私事ながら。
100歳で大往生をむかえた我が祖父は、70代の頃に
臨死体験をして、それが大層気持ち良かったらしいので、
「死ぬのは怖くない、いつお迎えが来てもいい」と毎年
繰り返しながら30年近くを生きました。
そんな祖父の言葉を聞いて育ったおかげか、
私は臨死体験に物凄く興味があるのですが、
幸か不幸か死にかけることなく馬齢を重ねております。
今回の本は、臨死体験本のある意味極北。
第一線で活躍する脳神経外科である著者が、
死後の世界ないしは天国と思われるところで
過ごした経験を語った本です。
プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界
医療従事者が神秘体験をするパターンというのは、
ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』を思い出させます。
左脳の機能がどんどん喪われていく中で、安らぎの境地を
体験します。
奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき
医師も人間ですから神秘体験のひとつやふたつ、したって
いいと思うんですが、やはり脳の専門家が神秘体験をする、
ってところが非常にキャッチ―ですよね。
日本で数年前に売れた『人は死なない』も、たぶんERの先生が
書いたから話題になったのであって、誰が書いたか知らずに
拾い読みしたら、ただのオカルトファンの妄言に
見えてしまう可能性もあります。
ものごと、何が書かれているか、だけでなく、誰が書いたか、も
重要である、という話ですが、それはさておき。
この『プルーフ・オブ・ヘヴン』の面白いところは、
著者アレグザンダー医師が、自分の治療にあたったスタッフとの
たび重なるカンファレンスを通じて「自らが神秘体験をした時の
脳は、いかなる意識も持ち得ない状態だった」ということをとにかく
厳密に検証したことです。
あえて懐疑的に見るならば、「意識という装置の天才的後付け
こじつけ能力」によって、あとから神秘世界の記憶が生成されていった、
と考えることもできますが、死後の世界がないとしても、そんなヴィジョンが
見られる裏モードが脳にあるのだとしたら、なかなか楽しそうです。
臨死体験、死ぬまでに一度はしてみたい……最低一度はあるのかな?
100歳で大往生をむかえた我が祖父は、70代の頃に
臨死体験をして、それが大層気持ち良かったらしいので、
「死ぬのは怖くない、いつお迎えが来てもいい」と毎年
繰り返しながら30年近くを生きました。
そんな祖父の言葉を聞いて育ったおかげか、
私は臨死体験に物凄く興味があるのですが、
幸か不幸か死にかけることなく馬齢を重ねております。
今回の本は、臨死体験本のある意味極北。
第一線で活躍する脳神経外科である著者が、
死後の世界ないしは天国と思われるところで
過ごした経験を語った本です。
プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界
医療従事者が神秘体験をするパターンというのは、
ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』を思い出させます。
左脳の機能がどんどん喪われていく中で、安らぎの境地を
体験します。
奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき
医師も人間ですから神秘体験のひとつやふたつ、したって
いいと思うんですが、やはり脳の専門家が神秘体験をする、
ってところが非常にキャッチ―ですよね。
日本で数年前に売れた『人は死なない』も、たぶんERの先生が
書いたから話題になったのであって、誰が書いたか知らずに
拾い読みしたら、ただのオカルトファンの妄言に
見えてしまう可能性もあります。
ものごと、何が書かれているか、だけでなく、誰が書いたか、も
重要である、という話ですが、それはさておき。
この『プルーフ・オブ・ヘヴン』の面白いところは、
著者アレグザンダー医師が、自分の治療にあたったスタッフとの
たび重なるカンファレンスを通じて「自らが神秘体験をした時の
脳は、いかなる意識も持ち得ない状態だった」ということをとにかく
厳密に検証したことです。
あえて懐疑的に見るならば、「意識という装置の天才的後付け
こじつけ能力」によって、あとから神秘世界の記憶が生成されていった、
と考えることもできますが、死後の世界がないとしても、そんなヴィジョンが
見られる裏モードが脳にあるのだとしたら、なかなか楽しそうです。
臨死体験、死ぬまでに一度はしてみたい……最低一度はあるのかな?
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