2014/09/09

第8冊 四十にしても惑いまくり! 『身体感覚で『論語』を読みなおす』安田登


身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から: 安田 登

能楽師にしてロルファー(※ロルフィングというアメリカ発の
ボディワークの施術者)でもあり、漢和辞典編集にも関わった
ことがあるという著者が、孔子が活躍していた頃の漢字の字形、
甲骨文・金文までさかのぼり、漢字に込められた身体イメージから
新たな『論語』の読みを提案してみせる、という野心作。


四十になっても、多分、惑ってたっぽい


面白いのは、「心」という字が、孔子の時代はまだ五百年程度の
歴史しかなく、現在の「したごころ」や「りっしんべん」に
当たるパーツを持つ字が、ほとんど存在しなかったこと。



その一例が「惑」です。


カンの良い方は、この時点で「えっ!?」と疑問に思ったかも
しれません。そう、『論語』でも有名な、

「四十而不惑

の「惑」の字は、孔子存命の頃、まだ地上に存在していなかったのです。


では当時、いったいどういう意味で(どのような漢字をイメージして)孔子は
この言葉を語ったのか、というところで、著者は、それは「或」という字だった
のではないか、と推測します。



仮に「境界によって区切ること」を意味する「或」を用いて

四十而不或

と述べていたとすると、

「そんな風に自分を限定しちゃいけない、
もっと自分の可能性を広げなきゃいけない」
(p23)

……という意味になるのです。


全然違うやん。

安田説がより正解に近くて、新たな可能性を探り続けて
いたとしたら、もう、惑いまくりだと思います、孔子。




「惑」を皮切りに、当時まだまだ新興の概念だった
「心」というものとの付き合い方が、現在のわれわれと
違ったのではないか、という風に論を進めて、
『論語』とは、「心」の取り扱いをはじめてマニュアル化
したものなのではないか、と論じます。


著者は、自分が能楽を修行した経験と、漢字研究の成果を
それぞれ駆使して『論語』を「心」の操縦マニュアルとして
読み解いていきます。


漢字を通した、当時の世界観への言及などもありつつ、
前回、当ブログでもネタにした『神々の沈黙』も引用されており、
構想としては、おそらく「近東に限って話をしている」『神々の沈黙』への、
東洋からの「返歌」を目指したのではないかと思われます。


確かに、甲骨文や金文の漢字のデザインから見え隠れする古代中国人たちの
世界観は、意識が「比喩から生まれた世界モデル」であるとする
神々の沈黙』と響き合う感じがします。


古代の身体感覚と現代の我々の溝を埋めるための補助線が、
はるかに現代寄りの「能」でいいのか、という批判もあるかもしれませんが、
古代の漢字とそこに込められていた呪術的な意味や身体感覚を通して
論語を読んでみるという試みは、とにかくユニークです。



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