2014/09/13

第9&10冊 足から人を観た探求者たち 『足の裏は語る』&『体癖』

足の裏は語る (ちくま文庫) 体癖 (ちくま文庫)

奇しくも、どちらもちくま文庫です。


妙にマニアックな身体論、身体哲学についての本が
出版されるのは、筑摩書房にはきっとそういうのが
大好きな編集さんがいらっしゃるんでしょう。


『足の裏は語る』の著者、故・平沢弥一郎先生は、
「足の裏博士」の異名をとる著名な医学博士で、
人間の足の裏をひたすら計測・研究して50年。
その数は何と40万人以上。

本書の中でも、男性がタマとサオをズボンのどちらに
入れるのが定位置か、と二千人以上のスポーツマン相手に
検証したり、排泄時の重心変化について女子大で調査したり、
まあ、変態です(褒め言葉です)。


一方の『体癖』の著者、故・野口晴哉先生は、
整体の指導者。整体という言葉が人口に膾炙する
ようになったのは、この方の働きあればこそ、でしょう。

 本書を読めばわかりますが、実は野口先生も、
足の裏の重心配分を測定できる機材を用いて、
「体癖」(野口先生の造語。人間の体の構造や感受性の
類型を12種に分類したもの)研究の一助としたようです。
この方は、一日に百人以上も整体指導したとか。
やはり変態です(褒め言葉です)。


面白いのは、この二人の研究が、ときどき交差すること。
その「交差点」にある考え方は、足裏への重心のかかりかたと生き方、
個性などにある程度の相関があるのではないか、ということです。

心と体は繋がっている……ではなくて、本来境目なんかないって
ことです。ひとことでいえば「心身一如」。

『足の裏は語る』では、

足長を百とした場合重心の位置が、
二十年前は踵から四十七パーセント周辺にあったものが、
最近ではその位置が四十パーセントあたりまで後退してきた

(『足の裏は語る』p96)
……とありますが、それは別に、人が徐々に体を使わなくなっているから、
ではなくて、気の持ちよう、「気構え」、即ち希望を抱いて行動する性質が
落ち込んできているからではないか、という仮説を提示します。

「何だよ、結局は精神論かよ」と侮るなかれ。
この平沢先生、精神状態によって足の裏のコンディションが
どう変わるか、まで延々と観察してきた人なのです。

女性の精神状態があまりよろしくない場合に、小指側が浮く……
といった話が、本書にも登場します(おそらくは、奥様が最初の
実験台だったのではないかと邪推します。余談ですが、本書では、
平沢先生の亭主関白な振る舞いに奥様がキレて、それまで
日々お子様の足裏を記録し続けていた資料を全部燃やしてしまう、
というエピソードまでぶちまけられていて、素敵です)。


野口晴哉先生の「体癖」に至っては、もはや個性と体の状態は
イコールという考え方で、『整体入門』という本には、性格を体操によって
変えられるのでは、という発想まで登場しています。

本書でも、整体指導を受けに来た人たちの体を見て、
「この人は●●種体癖だから、きっと、逆の事を言った方が
言うことを聞くな」みたいなことを考えて指導して結果が
出た話を自慢……もとへ、披露しています。


10歳差くらいの方々なので、いっそのこと共同研究ができていたら
さぞや面白かったろうと、後世から勝手に思うのでありますが、
それぞれの本からうかがえるそれぞれのキャラクターを思うと、
まあ、たぶん組むことはなかっただろうし組んでもすぐケンカ別れ
しそうだなぁ、とは思います(笑)。

人をこんな風な切り口で捉えるのもアリなのか……と、
二冊とも非常に楽しくて目からウロコでした。


余談

こちらの『姿勢のふしぎ』でも、姿勢と精神状態の
関係は論じられています。自閉症の人は重心がランダムに
動揺しやすい、みたいな話もあり、『足の裏は語る』や『体癖』と
ともに読むとまた面白いかもしれません。


姿勢のふしぎ―しなやかな体と心が健康をつくる (ブルーバックス)

『動物感覚』の著者で本人も自閉症のテンプル・グランディンが
「抱きしめ機」と自閉症について自著で語っていますが、皮膚感覚とともに、
重心の動揺がなくなる、というのも重要だったのかもしれません。

 → 参考:第1冊 人間だって動物です『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』







2014/09/09

第8冊 四十にしても惑いまくり! 『身体感覚で『論語』を読みなおす』安田登


身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から: 安田 登

能楽師にしてロルファー(※ロルフィングというアメリカ発の
ボディワークの施術者)でもあり、漢和辞典編集にも関わった
ことがあるという著者が、孔子が活躍していた頃の漢字の字形、
甲骨文・金文までさかのぼり、漢字に込められた身体イメージから
新たな『論語』の読みを提案してみせる、という野心作。


四十になっても、多分、惑ってたっぽい


面白いのは、「心」という字が、孔子の時代はまだ五百年程度の
歴史しかなく、現在の「したごころ」や「りっしんべん」に
当たるパーツを持つ字が、ほとんど存在しなかったこと。



その一例が「惑」です。


カンの良い方は、この時点で「えっ!?」と疑問に思ったかも
しれません。そう、『論語』でも有名な、

「四十而不惑」

の「惑」の字は、孔子存命の頃、まだ地上に存在していなかったのです。


では当時、いったいどういう意味で(どのような漢字をイメージして)孔子は
この言葉を語ったのか、というところで、著者は、それは「或」という字だった
のではないか、と推測します。



仮に「境界によって区切ること」を意味する「或」を用いて

「四十而不或」

と述べていたとすると、

「そんな風に自分を限定しちゃいけない、
もっと自分の可能性を広げなきゃいけない」
(p23)

……という意味になるのです。


全然違うやん。

安田説がより正解に近くて、新たな可能性を探り続けて
いたとしたら、もう、惑いまくりだと思います、孔子。




「惑」を皮切りに、当時まだまだ新興の概念だった
「心」というものとの付き合い方が、現在のわれわれと
違ったのではないか、という風に論を進めて、
『論語』とは、「心」の取り扱いをはじめてマニュアル化
したものなのではないか、と論じます。


著者は、自分が能楽を修行した経験と、漢字研究の成果を
それぞれ駆使して『論語』を「心」の操縦マニュアルとして
読み解いていきます。


漢字を通した、当時の世界観への言及などもありつつ、
前回、当ブログでもネタにした『神々の沈黙』も引用されており、
構想としては、おそらく「近東に限って話をしている」『神々の沈黙』への、
東洋からの「返歌」を目指したのではないかと思われます。


確かに、甲骨文や金文の漢字のデザインから見え隠れする古代中国人たちの
世界観は、意識が「比喩から生まれた世界モデル」であるとする
『神々の沈黙』と響き合う感じがします。


古代の身体感覚と現代の我々の溝を埋めるための補助線が、
はるかに現代寄りの「能」でいいのか、という批判もあるかもしれませんが、
古代の漢字とそこに込められていた呪術的な意味や身体感覚を通して
論語を読んでみるという試みは、とにかくユニークです。



2014/08/19

第7冊 神は、まだそこにいるのです 『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『神々の沈黙』ジュリアン・ジェインズ

第一部完、次回作にご期待ください! → 著者、他界

続編書くよ、と宣言されたまま書かれない
本というのは一杯ありますが、ただ書かれないだけなら
まだしも、書かれないままに著者が他界してしまう、
というのはあまりに切ないパターンであります。

本書は、その典型的な例です。

人間の意識って何だろう、というところに
挑んだ本は多いですが、この本は、古代文献や
古代遺跡の研究から、3000年ほど前まで、
人類に「意識」はなかった……という、
驚きの仮説に到達します。

「意識」はなかった、と言っても、みんな気絶してた、って
意味ではもちろんないです。


この本では最初の方で、意識とは何でないかということを
掘り下げることで、意識とは何か、ということを定義します。


その結果、意識とは、
「比喩から生まれた世界のモデル」
「言語に基づいて創造されたあのアナログ世界」
ではないか、という 結論に達します。


……要するに、「人間は頭の中に言葉に基づいた
バーチャルな世界を構築し、それを使って考えている。
これが意識ではないか」という定義に行き着くわけです。


人間は、意識があるから葛藤する。好きだけど嫌い、とか、
イヤだけど長い目で見たらメリットあるかも、とか。


だけど、意識のない頃の人間には葛藤がなかった。
なぜなら、神の声が聞こえたから。

意識に先立って、幻聴に基づいたまったく別の精神構造があった
というのが、本書の肝となる仮説です。

駆け足で説明すると、何じゃそりゃという感じがすると
思いますが、ジュリアン・ジェインズは、メソポタミアや
ギリシアの古代文献、それに旧約聖書を淡々とひもとき、
それを証明しようとします。


天の神様の言う通り


例えば、ホメロスの『イーリアス』。
現代の小説であれば、葛藤やら何やらが描かれて然るべき
場面が、神の声によってあっさりと行動が決定されてしまう。
『イーリアス』に出てくる人々は自らの意思がなく
何よりも自由意思という概念そのものがない
「てーんのーかーみーさーまーのいーうーとーおーりー♪」
……という歌遊びがありますが、まさにそれを地でいく
世界だった。

神の声が直接に聞こえていたような記述が続く時代には、
意志や意識という意味合いに解釈できる言葉がなく、
逆に、時代が下り、人々に神の声が聞き取れないという
記述が増えてくると、替わって意志や意識を意味する
言葉が増えてくる。


かつてその神の声は、現代の我々が「幻聴」と呼ぶ現象として、
人の行動を支配していた、というわけです。


この神の声を聞けた心の状態をジュリアン・ジェインズはBicameral Mind
バイキャメラル・マインドと名付けました。直訳すれば、二院制の心。
邦訳では、<二分心>とされています。


自由意志がなくて、頭の中から響いてくる神の声に従って生きるって、
どういうことだろう……?本書には、以下のような記述があります。


個人的野心や個人的怨恨、個人的欲求不満など、
個人的なものは一切存在していなかったが、それは
<二分心>の人間には一個人になるための内なる「空間」も、
一個人になるべきアナログの<私>もなかったからだ。

「個人」なるものがなかった。「私」なるものがなかった。
だから心理的葛藤もなかった。意思決定のストレスもなかった。


現代人が非科学的と思いながらも、意思決定に悩むときに
占いに救いを求めたりするのは、その名残りかもしれません。


神様からの親離れ~意識の獲得


個人的なものが一切存在しないのであれば、同じ神が導く限り、
その小さなコミュニティは比較的平和であったことでしょう
(神が喧嘩しろと命じたら別でしょうけど)。


ただ、古代史を調べると、<二分心>時代の国家間の関係は、
敵対か友好の両極端だったようです。たしかに利害が違う「別の神の民」
に対して神が発する声が、「ナカヨク!」か「ヤッチマイナ!」
の両極端になりそうなのは、それなりに納得できます。


『動物感覚』でも、動物に葛藤はなく、愛憎入り交じった感覚
なんて持たず、愛憎どちらかだけになる、という話がありましたが、
古代人たちもそうしたメンタリティの持ち主だったのかもしれません。


また、<二分心>時代の国家は、ある程度以上の規模になると
あまりはっきりした外的要因がないままに崩壊する事も
ままあったようです。これも、ひとつのコミュニティに属する
人々の頭の中に聞こえてくる「神の声」のブレやズレを、
制御しきれなくなったらコミュニティが崩壊する、という感じで
考えれば確かに納得できます。


その後も文字の隆盛や異種族間の接触の増加、火山噴火による
緊急事態の連続などにより神はどんどん「黙り」はじめます。
こうして、次第に神の声を喪った人類は、「意識」を持ち、
切り離された「個人」となり、個人と個人の「間」が空いた存在、
すなわち「人間」になったのです。



別れても、好きな神

憑依現象や催眠現象、詩や音楽の芸術、統合失調症といったものは、
神の声が聞こえた、<二分心>状態の名残ではないかと本書は説きます。


そして科学でさえ、神を喪った人間が、神の声、あるいはその代わりの
何かを求めているものではないのか、と。キリスト教と科学はある意味
親子のような関係だった、という歴史を知っていると、この辺は読んでいて、
ちょっとグッときます。


<個人>たる<私>に分かたれた人間が、その孤独に耐えきれず、
<二分心>モードに戻りたいと欲している面がどこかにある、というのは
よく納得できるように思います。そうでなきゃ、占いやらスピリチュアリズム
やら自己啓発やらがこんなに大手を振っていないでしょう。


余談ながら、本書を一読して思ったのは、ジュリアン・ジェインズが
存命だったら、『機動戦士ガンダム』とか『新世紀エヴァンゲリオン』を
観てみてほしかった、という思いです。「ニュータイプ」とか「人類補完計画」とか、
<二分心>モードっぽいので。あとは、白川静の本とか。
クラークの『幼年期の終わり』とかは、もしかしたら読んでいたかも。

勝手に続編予想したくなる名著

本書で予告されていた続編、『意識の帰結』は、ジェインズ亡き今、
もう書かれることはありませんが、私なりに、『神々の沈黙』の
延長上にどんなことが論じられるか(論じられてほしいか)、
妄想してみたくなります。

胡散臭くも壮大な<二分心>仮説、ぜひ、一度は
触れてみてください。すごく頭良くなった気分が
味わえます(笑)。

蛇足:勝手に続編予想 

おそらく、未知の続編『意識の帰結』は、駆け足でしか触れられなかった
<二分心>を失って、替わりに意識を得た我々、現在の人類を
よりクローズアップしたものだったと思われます。


自我や自己に関する哲学的な諸問題を、<二分心>仮説を
敷衍してぶった切っていく時に、大事になるのは、いわゆる
自同律の不快(by 埴谷雄高)と我々との付き合い方では
ないかと思います。


<私>であることは、結構たいへんだし、時として、不快なのです。
「自分探し」とは、結局、「探す」という言葉のもとに、今の
<私>から逃走し続けることです。

  ※ 余談 アドラー心理学が受けているのは、この自同律の不快に
  対して「イヤなら、その自分、やめれば?」と言ってのける

  思想だからだと私は考えていますが、それについては稿をあらためます。

まあ、逃げたくなるのも、やむなしか、とも思います。
何せ、これまで<神>がいた座に生まれたのが<私>
なのです。自分の<神>を自分で担当するんですから、
これはちょっと、親離れといっても大仕事です。


ゆえに、<私>であることをチョットやめられる状態を、
人は求め続けているように思えます。酒への耽溺も、
スポーツへの熱狂も、アイドルのライブでの狂騒も、
匿名掲示板の「祭り」での暴走も。


そう、人には「祭り」が必要なのです。
だから人類は、より新たな「祭り」を生み続けてきました。
文学、音楽、演劇、映画、マンガ……そしてゲームやSNS。


……その結果、現在は、おそらく祭りだらけなんです、
至るところが。民俗学でよく言われる、ハレとケの
逆転現象は、もはや究極にまで至っているのではないかと
思います。


おそらく『意識の帰結』は、このハレだらけになった
世界と意識の付き合い方
を考えさせてくれる本に
なるはずだったのだと思います。






その具体的方法は、一言で言えばおそらく「身体性への回帰」
ではないかと思うのですが、これ以上深入りすると終わらない気が
するので、また稿を改めます。


……なんてことを語りたくなるくらい、凄い本なんです、これは。

おまけ 関連しそうな本など


かつての、葛藤のない脳内世界がいったいどうなるか、というのは、
ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』が参考になるかもしれません。
こちらの本では、脳科学者である著者が、自らが脳卒中になり
左脳の一部が機能不全に陥った時のことを書いていますが、
左脳の機能がどんどん喪われていく中で、宗教的にも思えるような
安らぎの境地、著者曰く「涅槃(ニルヴァーナ)」を体験しています。



奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫): ジル・ボルト テイラー

※こちらは薄くて、わりあい簡単に読めます。中身は濃いです。

あと、意識は後付けの機能に過ぎないとする、「受動意識仮説」を提唱する
こちらの本たちも、『神々の沈黙』と併読するとより深く納得できるかもしれません。


脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫): 前野 隆司

錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫): 前野 隆司:

あと、意識は現実から0.5秒遅れだ、みたいな話に関連して、
忘れてはいけない名著、


Amazon.co.jp: ユーザーイリュージョン―意識という幻想: トール ノーレットランダーシュ, Tor Norretranders, 柴田 裕之: 本
また、20世紀最大の神秘思想家といわれるグルジェフは、
彼が連想器官(フォーマトリー・アパラタス)と呼ぶ、
言語による果てない連想を促す器官のはたらきを弱めることが、
覚醒への道だと説いています。これは、『神々の沈黙』の読後だと、
<二分心>状態への回帰を目指しているようにも読めます
(ジェィンズはグルジェフの著作からもインスパイアを得ているかも
しれません)。







2014/08/14

第6冊 ゲーム脳は愛より世界を救う『ハイスコア・ガール』押切蓮介 



ハイスコアガール(1) 押切 蓮介

「待ちガイル!!」

ってフレーズが懐かしいあなたは、読んでますよね。
読んでませんか、読むべきです。

著作権をめぐるアレコレで取り沙汰
されていたので、つい読み返してしまいました。
ファネッフー。

ゲーム脳、もしかして凄いんじゃないですか

 

ゲームは時間の浪費だったんじゃないか?
青春をぜんぶゲームに吸われてしまった!

……なんて、思うコトなかれ。

浪費して何が悪いのです。
人生はヒマつぶしです。
そして、あれはまぎれもなく、青春だったのです。

 このブログだって、人生の重要な諸課題を
そっちのけで書かれています。なんの益もないのに、
ただひたすら自己満足のために(笑)。

1990年代、ゲーセンや玩具屋、駄菓子屋の店頭で
「ストリートファイト」が行われていた時代の、アノ空気。

あれがただの時間と金の浪費ではなく、とてつもなく
愉しい、かけがえのない時間だったのだと
再認識させてくれる、そんな作品です。


つながる力、察する力、パクる力



で、また本筋と違うところで語ってみたいと思います。

当時のゲーセン文化を思い返してみて面白いのは、
ある種の「場」が出来ていたこと。
  • 当時、貼り紙なんかなくても、ローカルルールは
    いつの間にか把握していた
  • ネットもないのに技術的ノウハウがたちまち
    知れ渡っていた。パクりパクられ、を繰り返して
    いるうちに、一人では絶対に到達不可能な
    技術レベルに達する
  • 動きや戦術から、プレイヤーの腕前、ひいては
    性格(?)まで、何となくアタリがつけられた
    (気になれた)。そのおかげで、トラブルメーカーを
    事前に回避したり、場合によってはゲーセン友達ができた
  • ゲーセンのノートを介した、誰に届くか分からない
    或る意味不毛なコミュニケーションが、愉しく続けられていた
……といった、今考えると、どうやってやったのか、
どうしてそうなったのかが今ひとつ分からないことを
みんな自然にやってのけてたわけです。

まあ、プレーリードッグでもコミュニティを作って
言語で意思疎通しているくらいですから、これくらい、
人間様ならお手の物でしょうが、ゲーム脳もなかなか、
捨てたもんじゃないと思います。


  →7DE-001『動物感覚 アニマルマインドを読み解く』参照

妄想やゲームの中でとはいえ、我々ゲーマーほど
何度も弱きを助け、悪しきを挫き、世界を救ってきた
人種はいないと思いますし(笑)。

そうそう、無理矢理これまで読んだ本に関連付けるならば、
格闘ゲーム華やかりし頃、ゲームセンターという、
あの薄暗くてギスギスして不健康そうな(笑)「場」には、
それでも内田樹さんの言うところの「祝福」が満ちていたのです。

   →7DE-002,3 『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃参照 

その場、その時、そのマッチングでなくては為し得なかった
プレイが目の前で展開したときの無言の賞賛(もちろんその
逆もあったりしましたけど(笑))。


あの場には、確かに「そういうもの」があった。


ソーシャルゲーム、ネットゲーム全盛の今、あの空気を妙に懐かしく
感じるのです。もはや、20世紀生まれの懐古趣味なのかも
しれないですけどね。

第5冊 唯一の欠点は、ロシア系の名前が憶えづらいこと 『春風のスネグラチカ』沙村広明

「私がシシェノークの手を煩わせる事無く
土の上を動き廻ることなど絶対にあり得ません」



春風のスネグラチカ 沙村広明


『無限の住人』や『ハルシオンランチ』等の沙村作品を
愛読してきた身としては、果たして今回はどんな……
と思っていたら、まだ「若い」ソヴィエト連邦を舞台にした、
歴史ミステリー!

いやぁ、色々引き出し持ってますねぇ。
で、ミステリー的な謎解きの部分に踏み込まずに、
ブンガク的な方法であえて読み解いて、頭イイ人のフリを
してイイ気分に浸ろうというのが、本記事の目的です(笑)。

「ソ連、世界史の時間に習ったよ」

……という言葉を十代の若者から聞いて、先日ちょっと
ショックを隠しきれませんでした。そういえば。
余談でした。

物語は1933年のソヴィエト連邦から始まります。
車椅子の少女とその従者の青年の正体は?
彼らがこだわり続ける共産党管理下の「別荘」に
隠された謎とは……?

……とミステリーとしても面白いのですが、
こんな最果ての地のブログですから、
上記のとおり、あえて本筋から外れた部分に着目してみます。


信仰の地下水脈


本作では、ロシアの持っていた宗教的伝統(ロシア正教)や、
オカルティックな知識・技能(チベット医学)が、「科学的」な
共産主義による統治下でひっそりと隠れて息づいている様が、
作品世界に奥行きを与えています。

私が趣味でやっている「システマ」というロシア生まれの
武術がありますが、その思想的ルーツはロシア正教だったようで、
ソヴィエト連邦統治下にあっては、やはり深く静かに、
受け継がれていたようです(今や世界展開中ですが)。

本作でも、宗教を否定されているソヴィエトの国民は、
ロシア正教を表向き捨てたことになっているわけですが、

「スープの肉を時々残しているようですが、
斎戒日を気にしておられますか?」
「!!…………いや、気にするわけがなかろう」

……と、引用したセリフですぐ分かるくらい、聞かれた
側のオッサンは動じてます(笑)

やはり、人間の信仰ってのはなかなか変えられない。
どこかで偉大なるもの、善なるものとつながっていたい
のでしょう。

私は、共産主義というのは、合理的な思考をとことん
突き詰めた末にできた考え方だとは思っていますが、
私が共産主義に感じる致命的な欠陥は、人間というものが
もとから合理的には出来ていないことを、勘定に入れて
いないことです(笑)。
 本作のメインキャラたちは、皆クセがあり、一見
とっつきにくい連中ですが、読み終わる頃には、何となく、
この連中が好きになってしまう。おそらくは、彼らの行動が
物凄く「人間臭いから」です。 合理性などくそくらえ。
「きれいはきたない」ってヤツです。

非合理でいいじゃない、人間だもの

共産主義社会というとっても「合理的なシステム」
の中で、彼らは自分たちのコダワリのままに、
とことん、非合理に邁進します。

「従者の手を煩わせないと動けない車椅子」に象徴されるように、
本作は、合理的なシステムの中で、人間の不合理さが、
ある種のしぶとさ、強さ、生命力として描かれています。

ミステリーとしてのネタがばれないように書くと、

「助けるべきでないものを助ける」
「追求すべきことを追及しない」
「崇拝するものを汚す」
「自らを虐げてきたものを助ける」

……といった塩梅。

そして、主従関係に思われたモノが実は……?
というのがミステリーとしてのキモでもあるのですが、
読んだ方ならお分かりの通り、この主人公二人は
関係性にしても考え方にしても合理性とは対極なのです。
だが、そこがいい、のです。

『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木先生にならって言うなら、
本作もまた、 「人間賛歌」なのです。不合理で利己的で
泥臭くて目の前の相手のことを慮るので精いっぱいの
奴ら。

そんな奴らに会えるだけで、十分モトは取れる、ってもんです。


 

以下、蛇足です。
さらに本筋から離れます。

本作ではヒマラヤの薬草学というのが、ひそかに
重要な役割を果たしますが、19世紀末~20世紀初頭
というのは、欧米圏で東洋的なオカルティズムが
やたらと幅をきかせていた時代でもありました。

19世紀末には、オカルト好きにはたまらない、
ロシア出身のブラヴァッキー夫人が神智学協会を
ニューヨークにて設立。
20世紀初頭には、グルジェフが帝政ロシアに
チベット密教の秘儀をもたらしています。

オカルティズムの台頭は、
急速に合理的な思想・体制が組みあがっていく
時代の、 人間の非合理的な面の側のせめてもの
抵抗だったのかもしれません。

「だった」と書きましたが、この一世紀前の状態から、
実は状況はそんなに変わっていない気もします。

このへんも、また掘り下げてみたいと思います。

2014/08/11

第4冊 偉人の父は、エラい奴だった 『夢酔独言』勝小吉


夢酔独言 勝 小吉

素行真っ黒のバイオレンス御家人

おれほどの馬鹿な者は世の中にあんまり有るまいとおもふ。
故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能能不法もの、
馬鹿者のいましめにするがいゝぜ
あの勝海舟の父親の自叙伝が上のような序から始まるので、
どんな説教臭い話になってしまうのか、と思ったら、 さにあらず。

色んな方の自叙伝を読みましたが、これは間違いなく
トップクラスに面白いです。

前半を駆け足でざっと紹介してみましょうか。

幼い頃から暴れん坊で、強情で、わがまま。
7歳にして数十人の子どもを相手に脇差しを
持ち出して大げんか、14歳にして家の金を
ちょろまかして出奔、その金を盗まれても
乞食をしながら乗り切り、18歳の頃には
かなりの剣の腕を誇り、剣術の他流試合の
コーディネーターをつとめるも、日々喧嘩に
あけくれ、狼藉が過ぎたために21歳で実父に
座敷牢に叩き込まれ……。

ちなみに、勝海舟(幼名・麟太郎)は、小吉
が座敷牢に入獄している間に生まれています。

そんじょそこらの犯罪小説はだしです。
ひどい。

喧嘩喧嘩に盗みはするし、借金だらけなのに
手元にお金があれば吉原で散財するし、でも
金には困っているから物売りでも刀剣ブローカーでも
用心棒でもやるし、だけどやっぱりお金があると
周りにも気前よく振る舞ってしまう。とはいえ、
だからこそ、周囲からの信望は厚かったりもする……。

それらのことを、ことも無げに淡々と書いています。
このさらりとした筆致が、たまらなく面白い。

例えば、素行が悪すぎて36歳のときに、怒り心頭の
兄に「パワーアップ版・二重囲いの自家製座敷牢」に
入れられそうになったときのこと。

「入れられたくなかったら、改心しろ」と何とか仲裁
しようとする姉に対して、「死ぬ覚悟で来たから
すぐ牢に入れてくれ」と逆に迫る勢い。扱いに
困った姉から「一先(ひとまず)内へ帰れ」と
言われて帰ったのち……以下のように記してあります。


夜五ツ(午後8時頃)時分じぶんまで呼に
来るかと待っていたが、一向う沙汰がないから、
其晩は吉原へ行って翌日帰った。



座敷牢に入れられる方向に話が進んでいるというのに、
その沙汰をしばらく待って「一向う沙汰がないから、
其晩は吉原へ行って翌日帰った」とサッパリしたものです。


全編、こんな調子です。


善し悪しはともかくとして、ここまで人目を
はばからず、したいように生きて、いつ死んでも
いいと思っているような生き様は、「凄い」と
思ってしまいます。


でも息子思い、だけどさ。


こんな父親でさぞや勝海舟も大変だったろうとは
思いますが、勝海舟、当時9歳が犬に睾丸を
かまれて生死の境をさまよったときのくだりには、
息子を深く愛していた、ということを示す行動も書かれています。

篠田と云う外科を地主が呼んで頼んだから 傷口を
縫ったが 医者が振えているから俺が刀を抜て枕元へ
立て置て りきんだから、息子が少しも泣かなかった故、
漸々縫って仕舞ったから容子を聞いたら、
「命は今晩にも受け合は出来ぬ」 と云ったから、内中の
やつは泣いて計りいる故、思うさま小言を云って叩き散らして、
其晩から水を浴びて金比羅へ毎晩裸参りをして祈った。
始終俺が抱いて寝て外の者には手を付させぬ。毎晩々々暴れ散らしたらば、
近所の者が、「今度 岡野様へ来た剣術遣いは、子を犬に喰われて気が違った」
 と云いおった位だが、到頭 傷も直り七十日目に床を放れた。
夫から今になんともないから、病人は看病が肝心だよ。

えーと……はい。
「金比羅へ毎晩裸参り」とか「始終俺が抱いて……」 とか
息子思いな感じですね。

でもちゃんと「毎晩々々暴れ散らし」てます。
さすがです。
ぶれません。

で、それも例によってさらりと書いて、最後は
「病人は看病が肝心だよ」となんだかいい話ふうに
しめくくっています。

序に「馬鹿者のいましめにするがいゝぜ」と書いているわりに、
悪行をはたらいたときの記述に対してほぼ全く悪びれた感じがない、
この「お前実は自慢したいだけだろ」とか「本当に反省してんのかよ」
と読者に思わせる絶妙な筆致が、本書の最大の魅力であります。

下手な自己啓発本を読むより、よほどクヨクヨしなくなります。
おすすめです。


夢酔独言 勝 小吉


2014/08/05

第2&3冊 disる言葉が、今日もどこかで増えてます『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃


呪いの時代 (新潮文庫): 内田 樹

現代の「呪い」

忘れられやすいことですが、呪いが機能するのは、それが
記号的に媒介された抽象物だからです。具体的、個別的、
一回的な呪いというようなものは存在しません。
あらゆる呪いは、抽象的で、一般的で、反復的です。
それが記号的ということです。
(本書「祝福の言葉について」より)

自分たちの言葉が記号的に増殖し、現実の殺人者に
「殺す根拠」を備給する可能性について想像したことは
あるのでしょうか。
(同上)

相手を打ちのめし、否定するために放たれる言説を
「呪い」の言説と呼ぶ切り口に、「これは」と思って
一気に読んでしまいました。

言霊信仰、という概念がありますが、私は、毎年年を
重ねるにつれて、言霊というのは実にもっともな仮説だな、
と思うようになっている気がします。

徒手療法という商売柄、自分の放った一言が、良くも悪くも
かなり強力に患者さんの生活を変えてしまうことを実感する
せいもあるかもしれません。

また、これをお読みのあなたも、きっと、辛い時にふと
思いだすお守りのような言葉や、逆に、今
思い出しても心をえぐるような言葉があると思います。

本書では、現代をその後者、「呪い」に満ちた、
「呪いの時代」である、と述べます。

冒頭に引用したように、人々が、明確な相手の
いない空間に向かって放った記号的な「呪い」が、
何かの拍子に、だれかの悪意を後押しし、彼彼女が
ほかのだれかを攻撃する根拠となってしまう、
という世界観は、今の社会に私が感じる気持ち
悪さをかなり上手く説明してくれている気がします。


「呪い」はめぐる


国家や民族、宗教、病名などのレッテルや、
そのレッテルを貼られた人たちへの「呪い」が、
延々と再生産され続ける(例えば隣国への呪詛/
隣国からの呪詛は言うに及ばず、極端なことを言えば、
「リア充爆発しろ」だって冗談ではありますが、十分
呪いです)というのは今にはじまったことではないわけで、
「呪い」はずっとあったのでしょう。

それを、「呪いの時代」と名付るに足るまでの状況に
なっているのは、インターネットのウェブサイト上で、
容易に言葉をやりとりし、「呪い」を可視化できる
ようになったのが大きいのかもしれません
(可視化できるうえに、なかなか消えません)。



もはや着地点を探ろうなんて最初から
お互いに思っていない、議論のフリをした空虚な
「呪いの撃ち合い」をそこここで見かけるに
つけ、「呪い」の厄介さを思い知るのです。 
本来ネットなんて接続を切ってしまえば
それまで、と言いたいところなのですが、
ネット経由で世界に繋がるほうが楽な人、
ネット経由で世界に繋がらないと怖い人が
増え続けている以上、この「呪いの撃ち合い」は、
とどまらず……

……そんな状況を思い描いて、
連鎖的に思いだしたのがこの本でした。


虐殺器官: 伊藤 計劃


数年前にSF小説としてはかなり売れた(?)
『虐殺器官』です。読まれた方にはしっくり来ると
思いますが、人間を虐殺や戦乱に導く言説の結晶、
「虐殺文法」というアイデアは、内田樹さんの言うところの
「呪い」をもっと純化(悪い方へ)させたものだと思うと
しっくりきます。






ハヤカワSFなのに売れた(笑)『虐殺器官』


おそらくは「呪い」の気持ち悪さみたいなものを
感じている人が少なからずいるからこそ、
『虐殺器官』は売れたんだろうなぁ、と思います。

故・小松左京さんが「虐殺文法」があまりに曖昧で
具体的に描かれていないことを理由に『虐殺器官』の
授賞に反対したという話がありますが、「呪い」の
気持ち悪さを感じている人からしたら、「虐殺文法」は
曖昧で抽象的であるからこそ「怖い」のだと思います。


言葉があるから呪いは生まれる?


バベルの塔神話は言葉の混乱がのちの
人々の争いを生んだとしていますが、
そもそも言葉そのものが、便利な反面、
実態を離れたレッテルを対象とした憎しみを
生み、育む、「呪い」の温床としての機能を
持ってしまっている、とすら私は思っていますが、
だからこそ同時に、「呪い」に対するカウンターに
なるとも思います。

『呪いの時代』で内田樹さんが提唱している
処方箋も、すごく簡単に言ってしまうと、
「祝福」です。

「祝福」は個別性、具体性を取り上げて
認めることによって、むしろ「祝福」の対象を
深く無限のものとして肯定してみせることだ、と
内田樹さんは述べます。

この論を読んで、Facebookの「いいね!」ボタンに
対して私が感じていた微かな違和感の正体が、
少し分かった気がしました。

この「祝福」をあまりにシステマティックに、
しかも個別性や具体性を排除した形で行えて
しまうから、でしょう。墓参りをネットで済ますことに
似た違和感ですね。

自分の商売柄もありますが、この「呪い」に
満ちた状態を生き抜くためには、この個別性や
具体性の極み、すなわち自分の身体に還ることが
とても大事なように感じています。

……まあ、これは書くとまた長くなるので、他の
本(たぶん、「呪いの小説」『陋巷に在り』)の
感想とからめつつ。

それでは。