2015/03/17

第63冊 本当の原理主義とはこういうことさ 『イスラーム 生と死と聖戦』

イスラーム 生と死と聖戦 (集英社新書): 中田 考: 本


原理主義より原理的


イスラーム研究者にして本人もムスリムという
日本では稀有な存在の著者による、イスラーム思想の
入門書。

いや、わかりやすいけど入門書と呼んでいいのかどうか……
この点は後述します。

北大生をISへ紹介したかどで物議をかもした著者だけど、
この本を読むと、その考え方のスケールに畏れ入ります。

イスラーム思想をつきつめて考えるとこういう世界観に
なる、という考え方を紹介しているが、その過程で、
色々と目からウロコの話が続きます。例えば……

イスラームの話をすると、必ずと言っていいほど
「イスラームにはタブーが多くてたいへんそう」という
感想を聞きます。そこにはふたつの誤解が含まれています。
まずタブーと言う概念自体がイスラムにはないこと、
もうひとつは、イスラームはかなり自由度が高いもので
慣れてしまえば楽なことです。(p52)

「えっ?」と思いませんでしたか?
詳しくは読んでいただきたいですが、これだけでなく、
目からウロコの落ちまくる内容です。

・イスラームは、実は他の宗教にかなり寛容
・イスラームはアニミズム 
・イスラーム原理主義者と言われる連中も、実は
 イスラーム思想の根本に則っていない
・政教分離では実はあんまりいいこと起きていない
・イスラームは本来、国家というものを必要としない

私は本書で、自分がイスラーム思想がまったく
分かっていなかったことがよぉーく分かりました。


いや、中田さんに言わせると、ムスリム当人たちですら
イスラーム思想がいまひとつ分かっていない、という
ことになるのですが。



入門書の皮をかぶった、変革の書




この本の凄みは、

「世界中がイスラーム法が施行される空間になれば、
宗教や生活上の習慣の多様性は確保したままに
国家は不要になり、人間はより自由になれる」

という、ある意味イスラーム国が可愛く思えるくらいにアナーキーな
世界観を、「論理的に」提出してみせていることです。


イスラーム思想を敷衍していくと、現在世界を覆う問題に
対して、我々が前提と思っている世界観そのものを揺るがすような
(「国家」そのものが不要なのでは?など)解決法に至るという、
その論の展開は圧巻です。


また、現在世界を騒がせているイスラーム国、ISを、
イスラーム思想そのものを突き詰めた論理から批判するという、
ちょっと余人にはマネのできない知的アクロバットを見せてくれます。


日本国内では、イスラーム国を「国」と認めること自体が彼らの
思うツボだ、という論調が主流ですが、中田さんの論によれば、
彼らが「国」を志向すること自体が、イスラーム思想としてツメが
甘い、ということになります。


イスラームに興味のある人はもちろんのこと、興味のなかった人も、
我々の住んでいる世界・社会を相対化して考えることのできる、
頭のストレッチになって楽しいと思います。ぜひご一読を。

第62冊 霊界との清く正しいお付き合い 『いかにして高次の世界を認識するか』

 
いかにして高次の世界を認識するか
ルドルフ シュタイナー, 松浦 賢


私がメシのタネにしている代替医療の
業界というのは、面白い人の巣窟で、
霊が見える、オーラが見える、悪い所が
黒く見える、みたいな話は枚挙にいとまが
ありません。

私自身は、今のところ、そういうのは
まったく見えません。

見えたら仕事上便利だろうなぁ、とは
思うのですが、話のタネとしてオカルトは
好きなのに、仕事上役立つような特殊知覚は
発現しておりません。

で、この本も、何かの間違いでそういう世界が
見えると、便利だろうなあ、という下心で手に
とりました。

で、本を読んで叱られた気分になるという、
素敵な体験をしました。

珍しく読みやすいシュタイナー


没後90年経ってなお、ルドルフ・シュタイナーの
思想はおもに教育哲学の世界とオカルトの世界に
またがって、強い影響力を持ち続けています。

が、その著作は、人智学といわれる独自の
思想体系に裏打ちされていることもあり、
ナカナカにハードルの高い、読みにくいものが
多いのですが、この本は、そんなシュタイナーの
本としては格別に読みやすいです。

そして、タイトルからすると、霊視能力の
開発ノウハウが学べる本、という印象ですが、
さすがはシュタイナー、手っ取り早くオーラを
見たいとか、手っ取り早くヒーリング能力を
身につけたい、みたいな俗流(?)スピリチュアル本とは
格が違うのです。

……というところを、今回は取り上げたいと思います。

ちゃんとした人になりなさい!



まず最初の「条件」として、以下のようなことが語られます。

周囲の世界や自分自身の体験のいたるところに、崇拝や尊敬の感情を呼び起こすものを探さなくてはなりません。たとえば私がある人に会った時に、その人の欠点を批判的に見ると、私のなかから高次の認識能力が奪われます。(p11) 
世界や人生に対する感嘆や尊敬や崇拝の感情で満たしてくれるような思考のみを意識に上らせるようにすると、私たちは早く向上することができます。(p12)

この「良いこと探し」「人や世界をリスペクト」ですが、私もやる前は
正直ちょっとバカにしてましたが、実際にやってみると、驚くほど
メンタルの問題が落ち着きます。

逆に言えば、Facebookで友達の幸せに嫉妬するような
精神状態で霊能力なんて身につけてもロクなことはないってことです(笑)。

内面の平静の時間を生み出しなさい。そしてこのような時間に、重要な事柄と重要でない事柄を区別する事を学びなさい。(p20)  
学徒は、みずからの喜びや悲しみや心配事や、経験や行為を、自分自身の魂の前によぎらせます。そして、このとき、ふだん体験しているあらゆる事柄をより高い観点から眺めるようにします。(p21)
自分で決めたとおりに外界の印象の作用を受け取る能力をみずからのうちに育てなくてはなりません。(p28)

外界の瑣末なことに振り回されない自分を、まず、つくりあげる。

あの売れに売れたビジネス思想(?)書『7つの習慣』風に言えば、
「重要事項に着手せよ」「刺激と反応の間を広げよ」ってやつですね。

説教くさいなぁと思う方もあるかもしれませんが、
マスコミに登場する自称霊能者の胡散臭さを思えば、
「高次の世界」を認識する前に、その認識にふさわしい人格を
身につけよ、というのは至極まっとうな考えだと思います。

いや、そこまでいかなくても、自分には他のヤツがわからないことが
わかり、見えないものが見えている、という自信に溢れたヤツが、
どれくらいイヤなヤツかを想像するだけでも十分でしょう(笑)。

霊の世界がどうこう言う前に、ちゃんと働け


面白いのは、高次の世界を認識するための訓練にただ
没頭するような生き方はむしろ推奨せず、

数分間訓練を行ったら、私たちはそれをやめて、
おだやかな気分で日常的な仕事にとりかかるように
します。訓練に関わる思考を、私たちの日常的な仕事のなかに
いっさい紛れ込ませてはなりません(p54)
どのような仕事にも、私たちが人類全体のために奉仕する可能性が
含まれています。「私にとって、この仕事はひどすぎる。私は別の
仕事に向いているはずだ」と考えるよりも、「このささやかな仕事を
(あるいはいとわしいと思われるような仕事を)人類全体はどれほど
必要としているか」ということを認識する方が、私たちの魂は、
はるかによい影響を受けます。(p118)

と、日常的な仕事をシッカリこなすことが重要と考えている点。

まあ、日々、

「ハイヤーセルフが」
「次元上昇が」

なんてことばかり言っている人になるよりは、
日々淡々と働き、でもそういう世界も実は
コッソリ分かるんです、という人になったほうが
カッコイイよな、とは私も感覚的に思います。

が、アカシックレコードを認識できてこの世のこれまで
起きたことが霊視出来るんだ.、というルドルフ・シュタイナーが、
訓練は生活に支障をきたさない程度にね!と何度も念を
押しているのは、チョット面白いところです。

で、だんだんこの時点で、「見えたら便利だよねー」
みたいな気分の私は、どうやら叱られている気分に
なってきました(笑)。

で、結局超能力は?

物質的・感覚的な世界における机や椅子と同じように
感情や思考は現実的な事実である、ということを
完全に理解するとき、私たちは高次の世界に
おいて自分の位置を確認することができるようになります。(p42)
……とあるように、本書で強調されているのは、感情や
思考をコントロール下におくことです。

そのために、瞑想や周囲の風景、音、物などへ意識を
集中、没入させることで、「高次の世界」を認識していくという
具体的な方法は色々と本書の中で紹介されています。


とはいえ、基本的には忍耐が要る、ということが繰り返し述べられ、

しばらくの間は、静かに自己の内面に留まっている
状態を保ちなさい。『いつか私がふさわしい段階まで成熟したら、
生じるべきものが生じるだろう』という思考を自分のなかに深く
刻み込んだら、慣れ親しんだ日常の仕事に取り組みなさい。
そして高次の力のなかから、何かを好き勝手に自分のほうに引き寄せ
ようとする態度を厳しく戒めなさい(p107)

と、「超能力で色々いいことづくめヒャッハ―みたいなことは思うなよ」、
と戒められております(笑)。

まあ、現世で無敵になる裏コマンドとかは、無いってことです。


ごめんなさい、シュタイナー先生。


以下余談。

おそらく唱えているシュタイナー自身もこの本で書かれているような態度を
完全に貫いた、ってことは多分できていなくて、理想というか、努力目標とか、
そういった類のものだったのだとは、思います。

シュタイナーがアカシックレコードが●●できるとかいう話は、シュタイナー
自身がこの本で語っている戒めを踏み越えているように思えますし……。

逆に言うと、それだけ「あっちの世界」の魅力は強すぎるということかもしれません。

2015/03/03

第61冊 動けなくてハズカシイ高校生たちの超・密室青春群像劇 『ガレキノシタ』山下貴光

帯に曰く「極限型青春小説」。


何故か手にとってしまい、何故か買ってしまい、
何故かあっという間に読破してしまいました。


どうまかり間違っても、普段だと「青春小説」
なんて銘打たれたものに手をつけることは
ないのですが、最後に付いている大森望さんの
解説を読んだら、何とも面白そうだったんです。


おのれ大森望。


いや、罠にはまって良かった、ですよ。


ガレキノシタ (実業之日本社文庫): 山下 貴光

登場人物がガレキに埋もれてほとんど身動きできない
中で物語が進行するという「超・密室劇」。


そんな「不自由」な舞台設定なのですが、そこはさすが、
『屋上ミサイル』で「このミステリーがすごい!」
を受賞した作者だけあって、仕掛けが満載。


語り手を変えての全七話の短編を通して、
あっちの謎がこっちで解けたり、この人の
大切な人の安否があの人の話の中で
分かったり、といったあたりの仕掛けのおかげで、
あれよあれよと言う間に読めてしまうのです。


とある高校生の回想の中で、その友人が

 「人類の平和のためには共通の敵が
 いればいいのではないか」

という理屈を展開するのですが、本作
そのものをメタ視したような発言だなぁ、と。


本作での「共通の敵」は、もちろん、校舎の倒壊
とそのガレキの下への生き埋めという緊急事態です。


身動きもできない極限状態だからこそ
登場人物たちが素直になれたり強くなれたり
悪くなれたり、という色々があるわけで。


だからね、はっきり言ってしまえば、ガレキは
「言い訳」なのでしょう。


「極限状態だから、これくらい恥ずかしい
ド直球な青春小説になってしまっても……
いいよね!? いいよね!?」


……という。


思い返せば、2011年3月11日の大震災の後しばらく、
私自身、「震災後ハイ」みたいな状態がありました。


当時の自分のメールやツイートを見るとずいぶんと
気恥ずかしいメッセージを家族や友人に対して
送っていたことに気付き、なんともくすぐったい気持に
なったものです。


ちょっと斜に構えた本を読んでばかり来ましたが、
まあ、たまにはこういうドドド直球もありかな、と
思いました思わされてしまいました。


まあ、敢えて難癖つけるならば彼らの青春は
おおむねサワヤカ過ぎるのが鼻につく(笑)。


私の高校時代なんて『ドグラ・マグラ』読んで
ブウウゥウウーンとか言いながら、延々
モヤモヤ暮らしてましたからねぇ。
男子校で男ばっかりだったし。


あ、まったく余談ながら、表紙は女の子がセーラー服で
ヘソ出してますが、本文中のYシャツ云々の描写から
すると、こーゆー制服ではないのではないか、などと
どうでもいいところが気になりましたが、
まあ、枝葉末節です。


人に伝えたいことは、まあ、恥じらいながらも
ちゃんと伝えておいたほうがいいですわな。

2015/02/13

第59冊&第60冊+α 精神医学の重鎮が紡ぐ、自らの必殺技とその訓練法の歴史   『精神科養生のコツ』&『技を育む』

資質の凸凹という制約のせいでいろいろな分野を諦めて 、
狭い一筋の道に縋って生きてきました。個々の技の良否や真偽はともかく、
これしかできない宿命や運命を、「これをやろう」と思い定め、専ら内なる促しに
従って歩むと、嫉妬や羨望に苦しむことが少なく、納得と安らぎの終末を迎える
ことができるようです。そうした一個の人生を例示できた歓びがあります。  
(中略)
ボクは資質の凸凹、人としての未熟さ、そしてなにより技の未熟のせいで、 幼児期いらい今日まで、多くの方々に負担と害を及ぼしてきました。おそらく残された人生も同じような歩みとなりましょう。謝罪を籠めて、本書を捧げます。(『技を育む』あとがきより)

技術について、人生について、人間関係について、様々な示唆を含んだ
美しい結晶のようなあとがき。

私は「あとがき」から本を読んでしまうことが多い人間なのですが、
この「あとがき」は、数あるあとがきの中でも、かなり「響き」ました。
これで著者のファンになることが確定したような感じでした。


まずご紹介するのは、ベテラン精神科医が、精神科がらみの疾患を
抱えた人に勧める養生法を紹介した
『精神科養生のコツ』。


主に患者さんが自分でできるように、と養生法を紹介した本ですが、

「ええっ、精神科の先生が、こんな代替医療系の
方法や、ものによっては半分オカルトみたいな
方法を勧めていて、大丈夫なのかしら」

……と驚く内容。

自分での整体は序の口。

Oリングテスト等の筋力テストにより
モノやコトの身体への無害有害をチェック。

気功を使ってイメージで身体を整える。

さらには、既存の代替療法の併用も示唆。

精神医学的に、それってアリなの……?と思いますが、、
斯界で先生の元に勉強しに来る精神科医がひきもきらず、で、
事実、良い結果を叩き出し続けているようなのです。

何でそんな方法に行きついたのか、というところの
根幹の考え方は、以下のような文にもあらわれています。

精神科治療学が医学の他の分野に遅れているのは、
動物実験で代用できる部分が少ないせいです。精神の病は、
動物であるヒト種の病ではない、人間の病だからです。
その理由は、わたしたちはヒトではなく、内側に文化を組みこんでいる
人間というありようであり、そのありようを脱することはできない
からなのです。
いま必要なのは、他の生物と同じようにもっている、原始生命体としての
機能を呼び戻し、それと、進化が生み出した人間というありようとの和解を図る
ことです。昨今、哲学の分野からその作業が進められているようです。
わたくしは病と養生の現場で同じ作業を試みているのでしょう。(まえがきより。
傍線引用者)

   
改訂 精神科養生のコツ: 神田橋 條治


つまり、「文化」にまみれてしまった人間に、生命体としての
力を呼び戻すことで対処したり、カウンターで別の「文化」を
ぶつけることで変化を与える……といった方法論なのだと
私は理解しました。


このへん、中井久夫先生の『治療文化論』なんかと
読み比べるとまた面白いものです。



治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫): 中井 久夫


こちらの本は、精神異常を論じるにあたって、


「そもそも健常者なるものの存在を疑う」

という視点で、精神疾患とか精神の異常って
そもそも何だろう、と考えさせてくれるので、
狂気とか異常心理とかいうキーワードで
ときめいてしまう御仁にはオススメです。


神田橋先生の本の話に戻ります。

で、二冊目。

手さぐりで進むしかない精神疾患に対して、
周りからどう思われようとも、効きそうなものは端から試し、
オカルティックな治療や養生法に行きつく……

じゃあ、どうやってそんな技術を検証し、磨いたのか、
ということを神田橋先生が、自分史として書いたのが
この本、本記事冒頭にあとがきを引用した『技を育む』。



技を育む (精神医学の知と技): 神田橋 條治


精神科医として、言葉に力を持たせるために発声練習をしたり、
相手の身になって考えるためにイメージで相手に「憑依」したり、
全身をセンサー化するためにOリングテストから独自の方法論を
編み出したり、経絡理論に基づいた身体の操作を、自分なりに
検証したり……。


一世一代の「技芸」として、技術が磨かれ、
洗練されていくさまは、迷い、ためらいの連続ではありますが、
そうして繋がっていった連鎖は、驚くほど論理的に見えたりも
します。


例えばエリクソン派の催眠(昨今流行りのNLPの源流ですね)に
通じそうな非言語的なコミュニケーションやイメージ操作技法をどうやって
模索する際に、じゃあ、具体的なイメージのネタはどこから持ってくるか、
とか。


科学的検証に耐えるような類の「論理」ではないにしても。
精神疾患という無灯の世界に、ナントカ自分なりの灯りを
ともしていくために様々な概念や方法を試し、捨て、再利用し、
改善し……ということを考え続けている姿は、オカルト治療法、
と一笑に付すにはもったいない深みを感じます。


このへん、自分の頭で考え身体で試し、自らの「技」を高めていく
ことを述べている、『零戦の秘術』にも通じるかもしれません。

 参考 →第52冊+α 撃墜王vs.航空技術者 技術論なのに生きざまを問うてくる 『零戦の秘術』


こういう切り口、生き方もありか、と読むだけで不思議と元気になる
二冊であります。精神医学にオタク的な興味をお持ちの方も、
一読の価値ありではないかと思います。

2015/02/10

第58冊 読むたびに仕掛けに気付く、ネタ&メタづくし小説 『屍者の帝国』


 「あんたは、生命とはなんだと思う」 
笑い飛ばされるかと思ったが、振り返ったバーナビーは不思議そうな顔で淡々と告げた。 
 「性交渉によって感染する致死性の病」

屍者の帝国 (河出文庫): 伊藤 計劃, 円城 塔


メタづくしの帝国


いまここにある命をこじらせている、わたしやあなたに
おすすめの一作です。


死体にネクロウェアというプログラムを書き込んで
「屍者」として労働させる技術が発達した、架空の
19世紀の世界を舞台にした物語。


夭逝した伊藤計劃(わたしのブログ筆名の元ネタですね)の
遺したプロローグとA4ペラ一枚のプロットを元に、同時期に
ハヤカワでデビューした円城塔が完成させる……という、
亡くなってしまった作家と、存命の作家のコラボという点が
この作品のテーマとも響き合い、メタ的に読めて、ああ、
あざといな、と(いや、褒めてるんですよ)。


『ドラキュラ』に『フランケンシュタインの怪物』、
『カラマーゾフの兄弟』に『風とともに去りぬ』、『未来のイヴ』、
等等……の作品を読んでいるとなお楽しめる色々な小ネタが
満載なので文学オタにはたまらないものがありますし、
『007』シリーズへのオマージュなどもあります。


19世紀の世界情勢や医学史などをぼんやりとでも知っていると
なお楽しい仕掛けが満載です。


エピローグで、主人公のその後がどうなるか、
というあたりでは、やっぱりとニヤリ。


また、情報科学の歴史をちらりとでも知っていると、
バベッジマシーンが海底ケーブル等を用いて相互に
ネットワーク化されているスチームパンクな世界観も
また愉し、です。きっと、この世界ではニコラ・テスラの
提唱する全世界システムは実現されるのでは、などと
妄想が止まらなくなります。


まぁ、悪く言えば衒学的で中二病的とも言えますが、
仕方ないじゃん、そういうの好きなんだから(笑)。


肉体で考える、という「別の解」




個人的に注目したいのは、作品中では悩める主人公の相棒、
コミックリリーフで肉弾戦担当の英国軍人バーナビー。


主人公には粗野で思慮に欠けることをさんざん揶揄されていますが、
本記事の冒頭、主人公との問答でもわかるとおり、なかなかどうして、
頭の回転の早い人物です。論理的積み重ねよりは直観で答えを
ブチ抜く類の頭の良さですが。


人造人間やら屍者やらがひしめく中で、生身の人間であるはずの
彼の方が超人に見える、ってのが凄い。主人公一行の中では唯一
「実在する人間」をモデルにしているはずなのに。


第一部で、主人公たちがアフガニスタンの中で目的地にたどり着くのは、
結局、バーナビーの直観&棒倒しのおかげですし(笑)。


頭でアレコレ悩む主人公に対して、「身体で考える/動く」バーナビーの
存在があることは、主人公たちの旅を救っています。


また、彼の行動様式そのものが、最後に主人公が為す重大な選択に
対してのアンチテーゼ
にもなっているように思えます。


私自身は、意識なるものは身体性と切り離すことは
困難だと思っておりまして、「身体で考える/動く」
バーナビーは、主人公がたどりついた意識や魂に
ついての思索とは別の結論を提示している
存在に見えるのです。


……とまぁ、そんな風に色々に読める仕掛けが
満載の小説です。


本棚に置いておいて、損はないと思います。


今年アニメ映画になるそうです。なまじ好きなだけに、
期待と心配が入り混じりますけれどね。





余談。

本作の「元ネタ」としても重要な『フランケンシュタイン』と
『ドラキュラ』は極めて近しい人たちが書いた物語で、
フランケンシュタインの作者メアリ・シェリーと、ドラキュラの
実際の作者ポリドリは、スイスのレマン湖のほとりで、
詩人バイロン卿の提案でそれぞれの作品を書き上げた、
と言われています。

参考:ドラキュラとフランケンシュタインhttp://flash.dojin.com/ssplanning/byron/d_f.html

リンク先にもある通り、このバイロン卿の娘エイダが、
コンピュータの元祖とも言われて情報科学の歴史の
最初の方に登場する「バベッジマシーン」の開発に協力して、
「世界初のプログラマー」と讃えられていて、こんな狭い
交遊範囲の中がネタの宝庫ってのはすごいもので、
作家ならぬ我が身でも、何か小説の一本でも書きたくなります。

2015/02/09

第56冊&第57冊 毀誉褒貶の激しい怪エンタメ作 『ジェノサイド』


 ジェノサイド 上 / 高野 和明
 ジェノサイド 下 / 高野 和明


アフリカの奥地に誕生した、人類を滅ぼす可能性のある、
まったく新種の生命体の正体や、いかに。


SFでミステリーで、息子のために戦うおっさんや、
パッとしない感じの大学院生が、運命に翻弄される
うちにカッコよく見えてくる、ハリウッドのアクション映画っぽい
展開にミステリー要素や生命科学系のネタを叩きこんだ、
贅沢なエンタメ作品です。


この作品、レビューの毀誉褒貶の割れ方も見ものだったりします。
というか、ミステリーの仕掛けに踏み込むのも野暮なので、
今日はその毀誉褒貶のほうにしか触れません(笑)。


タイトルから推察されるように、虐殺に至ってしまう
人間の残虐性、みたいなことが作品の中でも重要な主題に
なっておるのですが、まあ、それに関して、小説内の「語り手」が
唐突に語る政治的主張が鼻につく、といった批判がとにかく
多いのです。


単純に内容がつまらなかった、という批判は少数派ってところが
面白いところで、おそらくなまじエンタメ作品として面白いのが、
可愛さ余って憎さ百倍というか、なぜそれなりに美味しい料理なのに
妙な調味料を横からブチ込んだんだ、興ざめしたじゃねーか!

という怒りなんですよね。


単純に面白くないと切って捨てられる小説は数あれど、
「余計な部分さえなければ」とこれだけ叩かれる「面白い小説」
ってのもちょっと珍しいと思います。


文庫化に際して、その気になれば叩かれるポイントを削る or 変更
することもできた筈なのに、そうしていない、というのも凄いです。


いっそのこと、『高い城の男』のように、実はこの世界では
○○大虐殺は本当にあった、という異世界なのだと思えば
いいのではないでしょうか。


余談
まあ、disり&虐殺つながりで、よろしければ、こちらも読んでやってください。

参考:第2&3冊 disる言葉が、今日もどこかで増えてます
    『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃



2015/02/03

第55冊+α 仏教のエッセンスはとことん論理的 『知的唯仏論』

知的唯仏論

知的唯仏論 宮崎哲弥 呉智英



「恩人」の本をひさびさに読む


私が高校生の頃、とある大思想家の本を読んで、
どうにもいまひとつ分からず、モヤモヤしていたことが
ありました。


そのモヤモヤをどえらくわかりやすく、スッキリと解説されて
いるのを読んで以来、呉智英さんのことは勝手に「恩人」として
認識してきましたが、ひさびさに読む、「恩人」の本です。


宮崎哲弥さんも、いっけん難しいことを解説する際の
切れ味が抜群でけっこう好きな評論家だったんですが、
その「師弟」が揃い踏みとは。


……ということで、気になっていた本です。
まいりましょう。


ガラケーならぬ、ガラブツ? 日本仏教の独自路線

まずこの本は、マンガや小説、伝統行事などを通して
日本人に根付いている「通俗的」な仏教観を
話のマクラにしつつ、仏教のエッセンスをじわじわと
抽出してみせます。


例えば、手塚治虫の『ブッダ』での輪廻転生の扱い方に
触れながら、原始仏教では、実は輪廻転生はそんなに
重視されていなかったのではないかなんていう話も
出てきて、目からウロコであります。


ピュアな原始仏教の教えは論理的に美しいくらいに
シンプルな、とってもアタマのいい教え
なのに、
その他の当時の民間信仰や、後代の人が足した色んなことが
ごたまぜに乗ってくる(日本仏教の、肉食帯妻OKルールも
そうですね)ので分かりづらかいのだ、ということが、次第次第に
見えてきます。


釈迦如来を本尊とする宗派は、禅宗以外にはあまりなくて、
日本の仏教は 釈迦より仏を上に置いている、とか、
花祭と釈迦の聖誕祭が習合したのは江戸末期、とか、
日本の仏教のガラパゴス的な進化についても、
原始仏教のエッセンスとの比較から、イメージを
大まかに把握できます。



わかったら負けだと思う宗教の「ポテンシャル」



もっとも、以前このブログでふれたように、

<仏教が「わかった」って思ったら、それは間違いなのだ>

 という論理的な仕掛けが仏教には施されていますので、
あくまでも、「暫定的な理解」だと思った方がいいかもしれません。

→参考:第40冊 仏教、何となくわかってるつもりの人に
     『仏教教理問答 連続対談 今、語るべき仏教』


 本書でも、
 そもそも理性によって捉えられ、見出した真理なんて暫定的なものでしかない。
 ……と表現されています。
面白いのは、宮崎哲弥さんが、リベラリズムの行き過ぎな台頭に危機感を抱き、

独我論的な思考への傾きはこの二十年ほどのあいだに、社会全体を覆いつつあり、もはや不可避なのではないかと思えます。

社会全体の「独我論化」を進めているのは先進成熟国において無敵の
公共哲学に成り上がりつつあるリベラリズム、とくに個人の自律と自己決定に重きを置き、「人それぞれ」を揚言する
主意主義的リベラリズムにほかならないということです。

その主意主義的リベラリズムを正面から批判しているのが、一昨年大ブームを巻き起こしたマイケル・サンデルのコミュニタリアニズムというわけです。(p223、宮崎)
負傷者の「助けて欲しい」という意志を確認できない限り、
見殺しにするのが「政治的に正しい」、「ポリティカル・コレクトな」
対応となりますから。

いまの話はいかにも極論にみえるかもしれませんが、実はそうでもない。
周知のように、尊厳死や脳死の議論の延長上で、「死の自己決定権」や
「自死権」が取り沙汰されています。リベラリズムの信奉者の大半が
これらを個人の自律権の範疇にあると是認するでしょうから、悪い冗談でも何でもなく、アクチュアルな課題です。(p228 宮崎)


とまで言います。
じゃあ、自由意思について、仏教はどう考えてるの?ということになると、

仏教は、完全に自由な意思などというものは端っから認めません。
すべての行為(ここでは意思も含む)は縁(条件)によって発生し、
縁(条件)によって消滅します。すべての縁から解放されるのは
悟りの境地に達したときだけです。世間(世俗世界)において、
万物の生滅は仮言的で、条件付きなのです。(p230 宮崎)

……と、小気味よく切って捨てます。

仏教は「この私」を救えるのか


以前ご紹介した通り、実は人の意思決定なんてものは、
大部分が無意識によって左右されてしまうのだ、なんていうことが
最新の脳神経科学、認知科学の成果として出て来てしまっています。

→参考:第48~51冊 目指すなら、「意識高い系」より「無意識高い系」。
     下條信輔祭り 『サブリミナル・マインド』他

個々人の意志をとにかく尊重すべし、というリベラリズムが
行き過ぎるのは、確かに危険に思えてきます。


本書では、リベラリズム≒独我論の偏重とセカイ系コンテンツの
相関関係などにも触れつつ、じゃあ、教祖が生まれてすぐ「唯我独尊」って
言っちゃった(笑)仏教って、何が救えるの?……というところにまで
切り込みます。

社会がどうあろうが、たとえば完全無欠の理想社会が
訪れようが、そこでも解消できない「この私」の苦しみこそが
仏教本来の救済対象なのです。(p232 宮崎)
やはり宗教たるもの、社会体制や普通の倫理で救えない部分まで
受け持ってほしいものです。

今はやりのピケティのパクリで言えば、

 religion > government

……ってことで。ええ、無理矢理 r > g にしましたとも。

独我論的な思考を内側から破る方途を提供できる、
たぶん唯一の実践哲学なのに、誰もそこに注目しない。
『この比類なき私』から『縁起する無我』で出る仏教だからこそ
可能な「救済」ですのに。
(p240 宮崎)

これ、すごいエッセンスだと思うんです。

独我論ってのは、突き詰めると、


「(その人にとっては、その人にとっての世界が全てなんだから)
人それぞれ、何したっていいよね」

になるわけですが、仏教の縁起の思想は、

「全ては関係性から成り立っていて、あらかじめ存在するものとか、
そもそもの意味なんてものはない。ただ、それを意味づけることはできる」


……ということになります。

自分の認識している世界がすべて=自分が正解だ、とするのと、自分が
意味付けできる、ということは一見、似ている。似ているけれど、結構な差がある。

この、似ているけど違う部分が、おそらく「独我論的な思考を内側から破る」突破点
なのだろう、と思います。

「意味は自分で付けていい」と聞くと、2015年1月現在でまだブームは続いている
(っぽい)アドラー心理学を思い出す方も多いかと思いますし、私もそうでした。

それに、アドラー心理学で言う共同体感覚も、この縁起という考え方と親和性が
ありそうに思えます。

この切り口は、なんか凄いこと思いついたんじゃないか、と思いましたが、
すでにやられてました(笑)。



仏教とアドラー心理学―自我から覚りへ: 岡野 守也


……ということで、縁起の思想というのは、少なからぬ人が「重たくて重たくて、
自分が自分であることが辛い」と苦しんでいるいう状況に対しては、
ひとつの重要な護身術(護心術)になるのではないかと思います。


「自分が自分であることが辛い」」という感じは、ピンとこない人には
何を言っているのかよくわからないかもしれませんが、これがピンとくる
ようなご同輩には、ご一読をお勧めいたします。はい。