2014/10/09

第13〜26冊+α 顔回と孔子の呪術的世界『陋巷に在り』

歴史小説? 幻想小説?
なんと分類したらいいのか。

陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫)

この本については、全巻読破したら書こう、と
思っておりましたが、とうとう書ける時が来ました。
しみじみとした感動があります。全13巻。結構
読んだなあ……。

中国の歴史書で史実とされていることの隙間や謎に
納得できる答えを用意する<歴史小説>として。

その隙間でこれでもかと登場人物たちが権謀術数や
呪術をつかって戦う<伝奇小説>として。

当時の人々の信仰や生活を通して現在の今・ここ・
われわれについて考えさせる<現代批評>として。


どんな切り口で読んでもとにかく面白いです。


この小説の舞台は春秋戦国時代。
かの孔子が、まだ魯の国の政治家だった頃の話。
主人公は孔子の愛弟子として名高い顔回。


この顔回、『論語』を読む限り、孔子をヨイショする
発言をして孔子を喜ばせる以外はさしたる活躍を
していない人なのですが、『論語』では孔子は彼のこと
を大絶賛しています(「一を聞いて十を知る」という
表現も、元は孔子が顔回を評して言った言葉)。


なんで、この顔回に孔子はメロメロなのか。
『論語』読者には、いまいち釈然としないところですが、
この小説、そんな問いに対してもある種の答えになっている
のです。


■サイキック孔子伝!?

さてこの小説、売り出される際に、

「サイキック孔子伝!」

なるフレーズを冠されておりました。
完全に超能力バトルものを思わせるフレーズです。

この小説では、礼がまだ呪術から分たれていない
時代、というものが舞台となっており、この呪術
合戦が、確かに超能力バトルといえばいえなくもない。

この頃の時代の中国人の世界観というものに触れたければ、
白川静さんの著作に触れるとなお楽しめるかと思います。

 → 参考:第27&28冊 中国人の「古代妄想」に触れる
   『孔子伝』&『字統』

でも超能力によるバトル、と聞くと、現代の日本では、
小説よりもマンガやアニメで触れる機会のほうが
多いかもしれません。

サイコキネシスで相手をぶっとばしあい、壁に
球状のヒビがビキっと入る大友克洋作品のようなものや、
各人固有の特殊能力を使って戦う荒木飛呂彦のジョジョ
シリーズのような異能合戦みたいなイメージが強いですが、

AKIRA(1) (KCデラックス ヤングマガジン) ←サイキックといえば大体このイメージですよね。

 この『陋巷に在り』で描かれる超能力は、言っては何ですが、
見た目にはもっと「地味」です。


呼吸によって相手を惑乱。
呪物によって敵の侵攻を遅らせる。
話術によって相手を誘導する。
女子によって敵を誘惑。


でも「地味」とあなどるなかれ。


周囲の景色がじわりじわりと別の貌を見せ始め、
気づくと別の世界に迷い込んでいる恐ろしさ。

人の心や行いが、本人の思わぬうちに
蝕まれていく怖さ。

術をかけた側、かけられた側の微妙な精神状態の
変化が、その戦いの帰趨を決する。

そんな部分の愉しさは、この作者の筆によれば
こそでしょう。

舞楽を通じた神との交信なんて、これはなかなか
他の手段で表現するのは難しいよな、と思わされる
描写です。

さりとて、神と人がまだ近かった時代の精神状態ならば、
さして荒唐無稽とも思われない、丹念な描写です。

 →参考:第7冊 神は、まだそこにいるのです
 『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

本来の意味での「サイキック」ならば、確かにその
微妙な心理描写を評するのにウソではないのです。


マンガやアニメに生まれながらにして触れている
世代からすると、「サイキック」と聞くだけで、
孔子が念力で人を吹っ飛ばしたりするような絵を
想像してしまいますが、そんなことはないです
(あ、でも孔子はフツーに腕力で武装した兵士を
吹っ飛ばしてます。そのへんもお楽しみに)。


■ものすごく「具体的」なファンタジー
とにかくこの作品では、その呪術合戦が陳腐に
ならないような工夫が随所に見られます。


呪術による超常現象が起きても、物理現象が
ねじ曲がるようなことはないように、
あくまで心理現象として術の効力が及ぼされる
ように、相当な配慮がされています。


また、用いる道具や方法、その技術を可能としている
原理、というものが執拗なまでに説明されています。


だから、もしかして現在、丹念にその術の理論体系を
学ぶ手段があれば、自分でもこの術を使えるように
なってしまうのではないかという妙なリアリティが
あるのです。


余談ながら、このあたり、酒見さんの
エッセイ集『中国雑話 中国的思想』の中で、
仙人になるための技術が異常に細かく
マニュアル化されている『抱朴子』について
触れられているところと重ねると、ちょっと面白いです。
中国雑話 中国的思想 (文春新書) 抱朴子 (岩波文庫)


例えば、催眠術に多少なりとも興味のある方ならば、
言葉を使わない現代催眠術の掛け方の基本の
基本として、呼吸のリズムを相手と合わせる
というものをご存知かもしれませんが、
そうしたノウハウも術の掛け合いの描写の中に
緻密に織り込まれており、スキな人はニヤリ
とできること請け合いです。


またまた余談ですが、現代催眠術の具体的な
ノウハウをざっと知るには、こんな本も面白かったです。
洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放

著者はかの有名な苫米地英人さん。
毀誉褒貶も激しい方ですが、この本は
べらぼうに面白いです。


■言葉を使う「呪術師」としての覚悟

小説の筋書きをアレコレ言うのは野暮なので、
まったく別の切り口から。


私はこのシリーズを文庫で読みましたが、
そのうちの何冊かにはあとがきがついています。


そのあとがきのひとつに、神戸連続児童殺傷事件、
通称酒鬼薔薇事件』について触れられたものが
ありましたが、本編もさることながら、この
あとがきが圧巻でした。



あの事件、犯人がマンガやアニメの影響を受けて
いた、とは早くから言われていた事です。


「マンガやアニメがそんな影響を及ぼすと
やり玉にあげられるのは心外だ」……と
多くのクリエーターならば言いそうですが、
ここで酒見賢一さんの言う事は違います。


要約すると、小説の影響、と誰も言わない
ことが不満なのです。小説が、それだけの
影響力を持つメディアたりえないことが、
不満なのだ、と。


別に犯罪の起爆剤になればいいな、と
言っているわけではないところに
注意すべきですが、そうなるかもしれない、
と思われるような「毒」というか、何か
とんでもないもの……暗がりを覗かせる
ような「力」を、小説に持ってほしい、
いや持たせてみせる、という決意表明と
受け取りました。


『陋巷に在り』では、古代の礼の滅び、
呪術の凋落が描かれていますが、
新興メディアがすでに深く根付きつつある
現代に、文筆の力のみ、文字だけで書かれた
もので、時空を超えて読者は喜怒哀楽と
振り回してくれる小説というものは、
考えてみればこれも立派な呪術とも
言えるわけです。


『身体感覚で『論語』を読みなおす』では、
ある物を移動させるとして、礼を尽くして言葉にして
力持ちの人に物を運んでもらえるのだったら、
それは念力で移動させるのと同等以上の呪術ではないか、
という意味合いのことが書かれていましたが、

 → 参考:第8冊 四十にしても惑いまくり! 
   『身体感覚で『論語』を読みなおす』安田登

もしそうだとすれば、様々なメディアが登場し、言葉を容易に
複製し、バラまき、遺す事ができる現代は、もしかしたら
史上最も呪術的な時代なのかもしれません。

 → 参考:第2&3冊 disる言葉が、今日もどこかで増えてます
   『呪いの時代』内田樹 & 『虐殺器官』伊藤計劃

呪術師、酒見賢一さんの更なる活躍を
祈ります。


蛇足ですが、この小説の中盤以降に、
ケレン味たっぷりな医鶃という医師が登場し、
呪術や体術、様々なハッタリ(!)まで使って
治療を行いますが、このあたりの描写や、
彼の術や生き様に対して加えられる酒見さんの解説、
また、現代の代替医療に対する考察などは、
私のように怪しい技術で人様を施術してお金を
いただいている人間は一読の価値ありです。



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